最終章三話 無からの逃走

文字数 6,072文字

 辺りはナミのピアスが放つ光に照らされていたが、その光さえも吸い込まれて消えていく。
 そこで階段は途切れている。壁も天井もすべてがそこで消えている。それは闇でもない、ただの漆黒の空間でもない。光も何も存在し得ないまったくの“無”でしかない。
 ナミは降り立ち、タカシから伸びる白い手を見た。すでに半分以上が黒く染まっていた。災厄が玉からにじみ出ている。更に黒く徐々に侵食している。
「さあ、さっさと終わらせるわよ」
 激しい腹痛を抱えているかのように、青ざめた顔に大量の油汗を流して座り込んでいるタカシに言う。彼は立ち上がり、右に左に動き回る白い手を前に突き出しながらその“無”に向かっていく。背後から風が強く吹き、身体が押される。恐ろし気に口を開いているそれに一歩々々近づいていく。恐らくこの虚無の中に災厄を放てば、災厄は消える。そこに白い手を差し出し、開けばいい、それだけのこと、とタカシは眼前の情け容赦ない“無”の存在に怖気(おじけ)づく自分に言い聞かせながら進む。次第に“無”の吸い込む力が強くなっていく。空気だけではなく足もとの砂や小石も吸い込まれていく。気を許せば足を取られてそのまま一気にその中に吸い込まれてしまいそう。足を踏ん張りながらナミに声を掛ける。
「ナミ、吸い込まれそうだ。後ろに引いててくれ」
 ナミも空中にいるとそのまま吸引されてしまいそうだったので、地に足を着けていた。そのままタカシの背後に立ち、そのベルトに手を掛けて後方へ引いた。
 タカシは生唾を呑み込む。手が、足が震える。全身に悪寒が走る。とにかく怖い。必死に脳裏から感情を追い出す、思考を停止する。しかし手が、足が、無になることを恐れて勝手に震え出す。全身が眼前の虚無に反応する。彼は抵抗したがる自らの身体を意志の力で抑え込み、少しずつそこに近づいていく。不穏な状況を察したのか災厄の動きが更に激しくなる。尚も白い手に気力を注いでその動きを抑えつける。必死の思いで何とか白い手を差し出したまま、前に進んでいく。
 やがて少しずつ白い手の先が細かく分離していった。それはすぐさま“無”に呑み込まれて消えていく。更に近づく。白い手が更に分離していく。やがて玉からにじみ出ていた災厄の魂も分離をはじめた。白い手とともに徐々に消えていく。災厄の魂は自らの消滅を予感して一気に暴れ回った。
 タカシの気力は尽きかけていた。しかし、リサのため、みんなのため、絶対にここで災厄を倒す、そう自分に言い聞かせ、更なる気力を振り絞り“無”から逃れようとする災厄を抑えつけた。
 ただ、それもいつまでもつか分からない。しかし焦って突っ込めば自分もナミも呑み込まれてしまうかもしれない。慎重に冷静に確実に事を運ばなければならない。
 タカシは更に前に進む。“無”の吸い込む力が強くなる。もう足の踏ん張りが効かなくなってきた。ナミが呻き声を上げながら、早くして、と呟いている。ナミは最大限に後方に引いてくれているのだろう。その証拠にタカシのベルトが腹部にきつく喰い込んでいた。
 白い手と災厄の魂が少しずつ消えていく。災厄の動きが次第に落ち着いてきた、と思った矢先、白い手と災厄の魂の先に、黒く染まった(ぎょく)が現れた。
 あともう少し、タカシは察した。だから何とか耐えようとした。何とか足を踏ん張り、引き込もうとする力に抗った。あと一歩。あの玉が砕かれれば、全部終わる。彼がそう思った瞬間、玉の周囲に渦巻いていた災厄の魂から細長い突起が彼に向けて伸びてきた。
 タカシがあっと思った時には遅かった。突起はその先を彼の首に巻きつけた。瞬時に首が締まる。息ができない。思わず素手で首に巻きついた突起を掴んで引きはがそうとする。同時に白い手が消えた。突起の力は強く一向(いっこう)に引きはがせない。しかし多少、息ができるようになった。ぜえぜえとあえぐように息をする。こんな薄い息では苦しさは募るばかり。どうしようか考える余裕もない。
 白い手がなくなり災厄の全身が眼前に現れた。それはまるで龍の身体のように細長く伸びている。その身体の半ばから短い腕が出て、その先の手に鷲掴むように玉を握っていた。その龍は尾の先から“無”に呑み込まれて徐々に消えていた。
「まだ、なの?もう、もたない、わよ」背後からナミの声が聞こえる。彼らもずりずりと引きずられて“無”に近づいている。首に巻きついた突起さえなくなれば、後方に一気に下がれそうだったが、その突起が頑強で解けない。やがて災厄の身体の半分が消えた。もうすぐ玉が呑み込まれそうだった。そう見ていると、突然、ピキーンと甲高い音を響かせながら玉にヒビが入った。同時にタカシとナミの頭の中に悲鳴が轟いた。もう少し、タカシは察した。そしてジッと玉を見つめてそれが砕ける時を待った。ヒビが次第に長く伸びていく。枝割れしていく。もう少し、あと少し……その時、玉のヒビの一部が欠けた。そしてそこから小さな白い玉が顔を出した。
 災厄はなるべく玉を“無”に近づけないように前へ前へと移動させていた。やがて玉はタカシが手を伸ばせば届く位置まで近づいていた。だから、その小さな白い玉が現れて、玉から離れるその瞬間、彼はそれに向けて右手を伸ばした。それを消さしてはいけないと、とっさに手が伸びていた。彼は一歩前に進み出て、そしてその白い玉を掴んだ。伸ばした分、一歩進み出た分、その手は“無”に近づいた。瞬時に激痛が走る。手の甲の皮膚が()がれる。血が噴き出す。一瞬にして感覚がなくなった。思わず手が開いていく、このままでは白い玉を落としてしまう。そう思うと同時に右腕を畳んで零れ落ちそうになっている白い玉を口の中に入れた。
 片手を離したために首が尚も締まる。思わず口に含んだ白い玉を呑み込んでしまうが、首を絞められているために(のど)の半ばでとどまった。更に息ができない。苦しい、気が遠くなる。
「もうだめ、いったん後方に移動するわよ」ごうごうと鳴る風にまざってナミの声が聞こえると、ぐいっとベルトが引かれた。更に腹に喰い込む。腰から下は後方へ移動していくが、首に巻いた突起が動かないので上半身は残ったまま。更に息ができない。もう、全身の感覚が薄れてきた。
 もう、目の前に“無”が近づいている。(ほお)が割れ、皮膚が少しずつ剥がれて虚無へと飛んでいく。もう痛みも感じられない。ただ苦しい。息ができない。
 ふと感覚が消えた。全身から力が抜けた。手も足もだらんと垂れ下がる。ゆっくりと目も閉じていく。その時、彼は喉に熱を感じた。暖かい熱。そして頭の中に響く声。
“旅立ちの時、大神様は我にそなたを助けよと仰せになった。だから、助けてやる”
“大神様は私にあなたの願いを叶えよと宣下されました。さあ、願ってください”
 願い、死に直面しているこの状況で願うことはただ一つしかない。

 助けて……

 それはほんの一瞬。ごくわずかに彼の喉が白く光った。
 彼の首を締め上げていた災厄の突起から、力がふと抜けた。
 そのとたん、彼は後方に引かれた。逆に災厄の魂は玉とともに“無”に引き込まれていった。
 ナミは全力を懸けて後方へと飛んでいた。霊力はもう残り少ないが出し惜しみせずにすべてを出し尽くす勢いで。
 遠ざかる災厄が虚無に呑み込まれていく。そして玉が“無”に触れて、頭の中に断末魔の叫びを響かせながら弾けて粉々になって、そして消えた。
 やった、遠ざかる意識の中でタカシは思った。力の抜けた彼の身体を引きながらナミは飛び続けた。そしてある程度、虚無から離れた実感を得ると、この世界から脱け出そうと指向した。送り霊特有の能力を使って、いったんこの世界から出て、再度地上に戻ってこようと思っていた。
“……あれ?”
 一向に能力が作動しない。
“これは、どういうこと?”
 戸惑いながらもナミは飛び続けるしかなかった。

 ――――――――――

 眷属たちの後を追い、ルイス・バーネットに手を引かれながらリサは全速で走った。
 その間もタカシのことが心配で後ろ髪を引かれる思いに(さいな)まれていたが、災厄が鎮まっていた空間の崩落に誘発されて、彼女たちが走る地上へと続く洞窟も次々に崩れていた。今、通った場所が崩落音を響かせながら消えていく。途中で、先に地上へ向かっていた、気を失ったままの睦月を抱えた秘鍵、そしてミヅキとナツミに追いつき合流した。彼らは死地からの生還を喜び合う間もなく最後の力を振り絞ってとにかく先を急いだ。
 途中、リサの体力が限界を迎え、もう息も絶え絶えになると、ルイス・バーネットが馬に変化(へんげ)してその背に乗せて走った。彼もこれまで何度も変化し、言霊も発して霊力をかなり消費していたために、なるべくなら変化は避けたかったがもうためらっている場合でもなかった。
 ミヅキは途中、鹿姿に変化してふらつきはじめたサホを乗せ、ナツミはカツミの手を引き、玉兎は身体の半ばを風に変え、マサルは薙刀(なぎなた)を杖にして、蝸牛(かぎゅう)はただただ無我夢中で、地上へ向けて走り続けた。やがて、彼らの視界に小さく光が見えてきた。それはわずかずつ大きくなっていく。それは何にも勝る希望の光。地上への出口。

 ――――――――――

 恐らく意識を失っているのだろう、まったく力感のないタカシの身体を引っ張りながら、延々とナミは飛んでいた。道は一直線だった。迷うことなど考えられない。しかし、いくら飛んでも出口にたどり着けない。おまけに自分のごく近い場所以外には何にも見出せない。ピアスから発する光がどういう訳かごく近くまでしか届かない。そして背後から無性に追われている気がする。それは何かではなく、ただの無。
 どこまで飛び続ければいいのか分からない。霊力がいつまでもつのか分からない。どこに出口があるのか分からない。無がどこまで追ってくるのか分からない。時の経過とともに焦りが、不安が募っていく。思考が錯綜していく。もう叫び出したい気分。しかし叫んでもどうにもならない。歯を喰いしばる。とにかく最速で飛ぶ。すると、突然、かすかな声。
「おーい、凪瀬殿(なぎせどの)。空飛ぶ女。聞こえるか。出口はこっちだぞ」
 ナミは慌てて声の聞こえてきた方向に視線を向けた。そこには微かな光。はっと息を呑む。そこに行かなくては。
 その光に向けてナミは最後の力を振り絞って飛んだ。
 長い、長い道のりだった。光はどれだけ飛んでいっても大きくも強くもならず、ただ闇についたシミのように、ただそこで光っているだけ。その光は、遠くにあるから小さく弱々しいのだと思っていたが、段々ともとからその大きさなのではないかと思えてきた。しかしいくら高速で飛んでもそこに近づけないのでそんなはずもない。次第に疲労から思考力が低下していく。霊力の残りもおぼつかない。突然、出力が落ちて失速してしまいそうで不安が募る。しかしそんなことをぐだぐだ考えたところで後方からは容赦なく無が近づいてくる。もう事ここにいたっては、唯一の希望である微弱な光に向かって全速で飛んでいくしかない。
 ナミは更に速度を上げた。もう、限界を超えそうなほどの速度であり、霊力の出力であった。すると少しずつ光が大きくなっていった。出口に近づいている。このまま飛んでいけば。
「おーい、出口はこっちだぞ」と前方から更に呼ぶ声が聞こえる。さっきよりもはっきりと聞こえる。気が遠のいていく。視界が狭まっていく。身体中に受ける風圧が次第に重くなっていくように感じる。あと少し、あと少し……
 タカシは間断なく身体中を打ち付ける風圧に目を覚ました。しかし風の勢いにしっかりと目を開けない。顔をしかめながら薄目を開けて前方を見る。白い光が眼前いっぱいに広がっている、と思った瞬間、彼らは黄泉の宮に飛び込んだ。
 待ち構えていた醜女(しこめ)たちがとっさに注連縄を張る。それまで強烈に吹いていた風がピタリとやんだ。
 ナミの身体から一気に力が抜けた。そのまま失速し、落下し、代理石のようなすべすべとした床に、ぶら下げていたタカシとともに落ち、しばらく滑って、そして止まった。
 ナミは仰向けの体勢で、肩で息をしながら、左の手のひらを眼前で開いた。ぼんやりと薄くなっている。しかし動かないほどではない。良かった、霊力が尽きる前に脱出できた。そう思いながら少しそのまま動かずに息を整えた。その横でタカシは頭をふらふらと揺らしながら起き上がると怠そうに座った。そして、ふと思い出して、顔を下に向けて口を大きく開き、指を伸ばして喉の奥に突っ込んだ。
 長い回廊に嘔吐(おうと)の声が響く。タカシは何度か繰り返した。
 その頃にはクロウも満面の笑みを(たた)えながら、彼らが災厄を亡き者にしたこと、また底の国から帰還してきたことに賛辞を贈る気満々で駆け寄っていたが、その嘔吐の声を聞いて戸惑った。彼はいったい何をしているのだろう?まだ何か問題でもあるのだろうか?
 そうクロウが思っている間もタカシは嘔吐を繰り返した。そして吐瀉物(としゃぶつ)にまざってそれは床に吐き出された。
 軽くコンと音を立てて床に落ちた。その親指の先ほどの玉。それはタマとヨリモの魂の固まりだとタカシは確信していた。彼らは自分を助けてくれた。こんな状態になってまで……
 タカシは深い感謝の念を抱きながらその玉を持ち上げ、シャツの(すそ)で吐瀉物をキレイに拭き取り、そして手のひらに乗せた。すると玉は唐突に二つに割れた。小指の先ほどの小さな白い玉と勾玉(まがたま)になった。彼はそれらを無くさないようにズボンのポケットの中に一緒に入れた。
 それからタカシはナミの姿を見た。身体が薄くなっている。しかし前にいた世界で霊力を使い果たした時ほどではない。証拠に彼女は仰向けのまま右手のひらに画像を浮かび上がらせて、左手で操作していた。
「ナミ、すぐにここを出てリサのもとに向かおう」タカシの言葉にナミは一呼吸おいて答えた。
「無理よ。さっきもいったんこの世界を出ようと試してみたけどできなかった。どうやらこの場所は圏外みたい」
「圏外?何も通話しようとしている訳じゃない。電波の状態なんて関係ないだろう」
「そういうことじゃないの。自我世界への出入りは場所から場所への移動なの。出る場所と行く場所がはっきりと認められない限り移動ができないの。そしてこの黄泉(よみ)の国は本部のデータベースに載ってない。出る場所の認識ができないのよ」
「それって、つまり……」
「ここから出る手立てがなくなったってこと」
 まるで他人事のようにナミが無感情な声で言う。タカシは声を失った。今までリサのために粉骨砕身、身を削るような思いでここまで来た。しかしもう二度と地上に帰れない。もう、二度とリサに会えない……
「いやダメだ」タカシは思わず立ち上がった。そして何よりも固い決意を瞳に宿してナミを見下ろした。
「俺はリサに戻ると約束した。絶対にここから出る。リサのもとに帰る。諦めるな。力を貸せ」
 ナミは一息長く吐きながら、やれやれと思った。まだゆっくり霊力の回復している暇はなさそうね。
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