第十四章十話 暗色の憑依
文字数 4,255文字
これは誰の記憶なんだろう?
リサはその記憶を眺めながら不思議に思った。私はショウタ兄ちゃんに襲われている時に凪瀬 さんに助けられた。だからその後、タロウの所には行かなかった。そのはずなのに、確かに私がタロウを見てる?この場景、確かに経験したような気がする……そのとたん、怖気 が背筋を駆け上ってきた。もしかして、この記憶が本当なの?助けられたのはまた別の記憶……
今まで忘れていた。無意識に、意識の上に現れないように奥底に沈めていた。今はすっかり思い出せる。急に身が縮こまる。顔をしかめる。思い出したくない。でも湧き出すように意識の上にその記憶が映し出されていく。
タロウは本当に嬉しそうに尻尾を振りながらあたしを見ている。あたしを信用しきっている無邪気そのものに見える表情。あたしは目を背けた。今、ショウタ兄ちゃんはいない。でも、どこかにいる。どこかで見ている。こんなことしたくない。でも、怖い。言いつけに背いたら何をされるか考えるだけで怖い。
ほんの数秒でしかなかったはず。でもとても長い葛藤をあたしは続けていた。あたしは、あたしが苦痛から免れるためにこの無邪気な目に宿っている光を消すの?誰もがあたしを蔑 み、責め、なじるだろう。あんなに無邪気なタロウをお前が殺した。何の罪もない動物を虐待した。それならお前が死ねば良かったのに、って。
あたしは、何かを期待してちゃんとお座りして待っているタロウの前で動けなかった。手に持った肉片から血が滴 り落ちた。あたしは手を開いてその鮮血が濃縮されたような赤い肉片を見た。手のひらに生々しく横たわる肉片。気分が悪い。吐きたい。
その時、母屋の扉が唐突に開いた。
あたしの身体はびくりと波打った。その拍子に手から肉片が零 れ落ちた。
誰か来る。自分の足もとに落ちた肉片をタロウが鼻先を近づけてにおいを嗅いでいる。ダメ、それを食べてはいけない、という思いと、誰かにこの場を見られて、この肉片のことを訊かれたらどうしよう、という思いが錯綜した。どうしたらいいのか何て考える余裕もなかった。とりあえずその場にいてはいけないとしか思えなかった。あたしはとっさに逃げ出した。走って一目散に山の中に。
ああ、私は何てことをしてしまったのだろう。タロウはきっとあのまま肉片を食べてしまったことだろう。そしてどうなったのか、私は知らない。目を背けて逃げてしまったから。
どこまで走ってもショウタ兄ちゃんの目が追ってくる気がした。そして悶絶してのたうち回るタロウの姿が想起された。そのすべてから逃げたいと思った。だから民家が絶え、人工的に植樹された杉の木立が途切れて、山の奥深くに達しても足を止めることはなかった。車も通れる林道から外れ、曲がりくねった山道を行き、脇道を通り、けもの道に入り、どこまでも逃げ続けた。ただ、一人になれる場所を求めて。
そして道からかなり分け入った崖の下に立つ大木の根元に空いた大きな洞 を見つけた。枯れ葉の堆積した湿った洞。私は身体を縮めてその洞の中に座り込んだ。お尻の下敷きになりかけた小さな虫たちが何匹も逃げ回っていく。あたしは顔をしかめる。早くどこかに行ってと願う。やがてその場に落ち着くと、しばらくそのままでいた。じっとヒザを抱えて動かずに自分のしたことと、それにともなって起こるだろうことを想起した。
これは全部、ショウタ兄ちゃんのせい。あたしが悪いんじゃない。でも、あたしは何で肉片をそのままにして逃げたの?ショウタ兄ちゃんにバレるのが怖かったから?タロウは苦しんで死んでしまうの?健介さんも奥さんもすごく悲しむだろうな。あの肉片をあたしが持っていったってバレたら、あたしはどうなるの?ショウタ兄ちゃんが悪いって言ってみんな信じてくれる?でもそれを言ってしまったら、きっとショウタ兄ちゃんは怒って、さっきよりももっとひどいことをするだろう。とても苦しくて、とても痛いことを。
そう思うとあたしはますますその場を動けなくなった。夕闇が迫っても、その洞から出たらショウタ兄ちゃんに見つかってしまいそうで、出られなかった。
樹々の間を縫いながら闇が忍び寄ってくる。湿った夜気 が吹いてくる。やがて辺りはどっぷりと暗くなった。
それまであたしは暗闇を怖いと思ったことはなかった。そんな状況に陥 ったことがなかったし、生まれた時から寝つきの良かったあたしは、物心ついた頃から灯りを消してもすぐに寝られたから怖いと思う機会ががなかったのだ。でも、その時、初めて本当の闇を知った。
深い森の中、月明かりさえ射してこない、何も見えない本当の闇。音は聞こえる。何かの動物の鳴き声?虫の声?枝葉のそよぐ音?見えないからはっきりと認識できない雑多な音が重なり合いながらたくさん耳に入ってくる。
怖い、とても不安。早くここから出たい。灯りのある場所に行きたい。でも周囲に何も見出せないこの状況ではどこにも行けない。立ち上がることさえ怖い。自分が動くことで立つ音がとても怖い。ここにいることも動くことも不安でしかない。
とても心細くて、泣きたくなった。だから泣いてみようと思った。少しでも気が楽になるかもしれないと思ったから。でも涙は出てこなかった。心が凍りついたように感情が動かない。ただ怖くて不安なだけ。自分を憐 れんで、置かれた状況を悲しんで泣くこともできなかった。あたしは途方に暮れた。だから呟いた。誰に向けた訳じゃなく、誰かに届くことを期待した訳でもなく、ただ闇だけが存在する虚空に向かって。
助けて、誰か、助けて……
もちろん何も起こらない。誰も助けてはくれない。あたしはきっとこのまま恐怖と不安に苛 まれながら夜が明けるまで動けない。これはきっとあたしがタロウにしたことへの罰。自分が苦痛から逃れたいばかりにタロウを犠牲にしてしまったあたしへの罰なのだ。自分が悪いからこんなことになったんだ。当然の報い。助けなんてくるはずがない……
その時、風を感じた。それまでほとんど吹いていなかった風があたしの前で渦巻いている気がした。その風は洞の中にも入り込んできた。それはまるで人の腕のようにあたしを抱えて洞から外へと移動させた。そして風は引き続き一方向に吹き続けた。まるでこっちにおいでと呼ぶように。
なぜかあたしはその風にとても安心感を抱いた。だから招かれるままについていった。もちろん足もとなんて何も見えない。だから何度も何度も躓 いて転びかけた。でもその度に風があたしの身体を支えてくれた。そのうちあたしはその風に乗るように歩くことができるようになった。風がそうできるように導いてくれているようだった。
やがて森を出た。頭上に煌 めく星々でそのことを察した。月明かりがとても眩 しくてありがたく思えた。そこで風がくるんと回転して渦になった。そちらに顔を向けてあたしは、ありがとうございました、とお礼をいった。風は緩やかに流れ、そしてどこかに消えていった。
足下に伸びる道の傾斜で麓に下りていく方角は分かる。まだ足もとが見えづらくて歩いていくのは不安、それでもそのままその場にいると、また闇に呑み込まれてしまいそうな気がして、ゆっくりと歩きはじめた。その時、道の先に小さな白い灯りが見えた。小刻みに動いている。そして微かに人の声。
“リサちゃーん、リサちゃーん”
あたしはその光と声に向かって更に足を踏み出した。聞き覚えのある声。あたしの不安と恐怖は一瞬にして消滅した。舗装されていない山道だったけど、その灯りを目指して一心不乱に駆け出した。伯母 さーん、とあらん限りの声を出しながら。
灯りがこっちに向いた。気づいてくれたみたい。向こうからも近づいてくる。そしてたどり着いた。
「ああ、良かった。リサちゃん、本当に無事で良かった」そう言いながら伯母さんはあたしを抱きしめてくれた。
とても心配してくれた伯母さん。必死になって私を探してくれた伯母さん。とても優しくて、綺麗で、大好きだった伯母さん。そんな伯母さんを私は……。私は、何てことを……
周囲の暗色がどんどんと脳裏に流入していく。自分が次第に占領されていく気がする。徐々にどす黒く染まっていく気がする。
私は悪いコだ。この汚らしく禍々 しい色がお似合いな、最低な人間だ。もういい、こんな私が存在している意味なんてまったくない。私なんてこのまま消えてしまえばいい。
自分に対する不信感、不快感、嫌悪感、次々と脳裏を巡る自分の記憶を見れば見るほど噴出してくる。私は、私のことが嫌い、と改めて思う。こんな私なんていらない。
災厄の魂は果てしなく流入してくる。もういっぱいで入らない、と思っても更に勢いを増して入ってくる。自分がどんどん、その色に染まり、そして隅に追いやられていく。自分が次第に薄くなり矮小になっていく。仕方がない、自分が悪いのだ。このまま一気に消してくれればいいのに、と思う。徐々に希薄になっていく自分と対照的に災厄の魂は力で漲っていくようだった。もう抗う気すら起きない。もういい、私のことはもう……
起きて……
目を覚まして……
微かに声が聞こえてくる。どこかで聞いたことのある声。
リサ、目を覚まして……
リサ、起きてくれ、頼む……
ああ、これは凪瀬さんの声だ。とても切実に聞こえる。どうかしたのかしら?
ゆっくりと目を開いた。ぼんやりとした視界の中にタカシがいた。暗色の向こうに懇願するような表情をしてこちらを見ている。何があったの?徐々に目を開く。タカシの身体から白い手が伸びて自分の肩を掴んでいる。何が起きているの?更に目を開く。そして、はっと大きく目を見張った。
タカシの口から血が流れ出ていた。その身体にどす黒い槍状 の突起が何本も刺さっている。身体のいたる所から血が流れ出ている。いったい何が起きているの?辺りを見渡す。そこここで傷ついた眷属たちが黒い槍状の突起と戦っている。
これは何なの?何が起きたの?凪瀬さん、大丈夫なの?混乱する頭で必死に状況を把握しようと努めるリサの頭上から怒鳴りつける声。
「バカ、早くそこから出なさい」ナミは槍状突起を避けながら必死に圧縮能力を使って抵抗していた。「もう、私たちも限界よ。もうすぐ災厄のすべてがあなたに憑依 する。そしたらもうどうしようもない。だから、抗いなさい。自分を信じて抵抗しなさい。これはあなたにしかできないこと。だから、ちゃんと、するべきことをしなさい」
リサはその記憶を眺めながら不思議に思った。私はショウタ兄ちゃんに襲われている時に
今まで忘れていた。無意識に、意識の上に現れないように奥底に沈めていた。今はすっかり思い出せる。急に身が縮こまる。顔をしかめる。思い出したくない。でも湧き出すように意識の上にその記憶が映し出されていく。
タロウは本当に嬉しそうに尻尾を振りながらあたしを見ている。あたしを信用しきっている無邪気そのものに見える表情。あたしは目を背けた。今、ショウタ兄ちゃんはいない。でも、どこかにいる。どこかで見ている。こんなことしたくない。でも、怖い。言いつけに背いたら何をされるか考えるだけで怖い。
ほんの数秒でしかなかったはず。でもとても長い葛藤をあたしは続けていた。あたしは、あたしが苦痛から免れるためにこの無邪気な目に宿っている光を消すの?誰もがあたしを
あたしは、何かを期待してちゃんとお座りして待っているタロウの前で動けなかった。手に持った肉片から血が
その時、母屋の扉が唐突に開いた。
あたしの身体はびくりと波打った。その拍子に手から肉片が
誰か来る。自分の足もとに落ちた肉片をタロウが鼻先を近づけてにおいを嗅いでいる。ダメ、それを食べてはいけない、という思いと、誰かにこの場を見られて、この肉片のことを訊かれたらどうしよう、という思いが錯綜した。どうしたらいいのか何て考える余裕もなかった。とりあえずその場にいてはいけないとしか思えなかった。あたしはとっさに逃げ出した。走って一目散に山の中に。
ああ、私は何てことをしてしまったのだろう。タロウはきっとあのまま肉片を食べてしまったことだろう。そしてどうなったのか、私は知らない。目を背けて逃げてしまったから。
どこまで走ってもショウタ兄ちゃんの目が追ってくる気がした。そして悶絶してのたうち回るタロウの姿が想起された。そのすべてから逃げたいと思った。だから民家が絶え、人工的に植樹された杉の木立が途切れて、山の奥深くに達しても足を止めることはなかった。車も通れる林道から外れ、曲がりくねった山道を行き、脇道を通り、けもの道に入り、どこまでも逃げ続けた。ただ、一人になれる場所を求めて。
そして道からかなり分け入った崖の下に立つ大木の根元に空いた大きな
これは全部、ショウタ兄ちゃんのせい。あたしが悪いんじゃない。でも、あたしは何で肉片をそのままにして逃げたの?ショウタ兄ちゃんにバレるのが怖かったから?タロウは苦しんで死んでしまうの?健介さんも奥さんもすごく悲しむだろうな。あの肉片をあたしが持っていったってバレたら、あたしはどうなるの?ショウタ兄ちゃんが悪いって言ってみんな信じてくれる?でもそれを言ってしまったら、きっとショウタ兄ちゃんは怒って、さっきよりももっとひどいことをするだろう。とても苦しくて、とても痛いことを。
そう思うとあたしはますますその場を動けなくなった。夕闇が迫っても、その洞から出たらショウタ兄ちゃんに見つかってしまいそうで、出られなかった。
樹々の間を縫いながら闇が忍び寄ってくる。湿った
それまであたしは暗闇を怖いと思ったことはなかった。そんな状況に
深い森の中、月明かりさえ射してこない、何も見えない本当の闇。音は聞こえる。何かの動物の鳴き声?虫の声?枝葉のそよぐ音?見えないからはっきりと認識できない雑多な音が重なり合いながらたくさん耳に入ってくる。
怖い、とても不安。早くここから出たい。灯りのある場所に行きたい。でも周囲に何も見出せないこの状況ではどこにも行けない。立ち上がることさえ怖い。自分が動くことで立つ音がとても怖い。ここにいることも動くことも不安でしかない。
とても心細くて、泣きたくなった。だから泣いてみようと思った。少しでも気が楽になるかもしれないと思ったから。でも涙は出てこなかった。心が凍りついたように感情が動かない。ただ怖くて不安なだけ。自分を
助けて、誰か、助けて……
もちろん何も起こらない。誰も助けてはくれない。あたしはきっとこのまま恐怖と不安に
その時、風を感じた。それまでほとんど吹いていなかった風があたしの前で渦巻いている気がした。その風は洞の中にも入り込んできた。それはまるで人の腕のようにあたしを抱えて洞から外へと移動させた。そして風は引き続き一方向に吹き続けた。まるでこっちにおいでと呼ぶように。
なぜかあたしはその風にとても安心感を抱いた。だから招かれるままについていった。もちろん足もとなんて何も見えない。だから何度も何度も
やがて森を出た。頭上に
足下に伸びる道の傾斜で麓に下りていく方角は分かる。まだ足もとが見えづらくて歩いていくのは不安、それでもそのままその場にいると、また闇に呑み込まれてしまいそうな気がして、ゆっくりと歩きはじめた。その時、道の先に小さな白い灯りが見えた。小刻みに動いている。そして微かに人の声。
“リサちゃーん、リサちゃーん”
あたしはその光と声に向かって更に足を踏み出した。聞き覚えのある声。あたしの不安と恐怖は一瞬にして消滅した。舗装されていない山道だったけど、その灯りを目指して一心不乱に駆け出した。
灯りがこっちに向いた。気づいてくれたみたい。向こうからも近づいてくる。そしてたどり着いた。
「ああ、良かった。リサちゃん、本当に無事で良かった」そう言いながら伯母さんはあたしを抱きしめてくれた。
とても心配してくれた伯母さん。必死になって私を探してくれた伯母さん。とても優しくて、綺麗で、大好きだった伯母さん。そんな伯母さんを私は……。私は、何てことを……
周囲の暗色がどんどんと脳裏に流入していく。自分が次第に占領されていく気がする。徐々にどす黒く染まっていく気がする。
私は悪いコだ。この汚らしく
自分に対する不信感、不快感、嫌悪感、次々と脳裏を巡る自分の記憶を見れば見るほど噴出してくる。私は、私のことが嫌い、と改めて思う。こんな私なんていらない。
災厄の魂は果てしなく流入してくる。もういっぱいで入らない、と思っても更に勢いを増して入ってくる。自分がどんどん、その色に染まり、そして隅に追いやられていく。自分が次第に薄くなり矮小になっていく。仕方がない、自分が悪いのだ。このまま一気に消してくれればいいのに、と思う。徐々に希薄になっていく自分と対照的に災厄の魂は力で漲っていくようだった。もう抗う気すら起きない。もういい、私のことはもう……
起きて……
目を覚まして……
微かに声が聞こえてくる。どこかで聞いたことのある声。
リサ、目を覚まして……
リサ、起きてくれ、頼む……
ああ、これは凪瀬さんの声だ。とても切実に聞こえる。どうかしたのかしら?
ゆっくりと目を開いた。ぼんやりとした視界の中にタカシがいた。暗色の向こうに懇願するような表情をしてこちらを見ている。何があったの?徐々に目を開く。タカシの身体から白い手が伸びて自分の肩を掴んでいる。何が起きているの?更に目を開く。そして、はっと大きく目を見張った。
タカシの口から血が流れ出ていた。その身体にどす黒い
これは何なの?何が起きたの?凪瀬さん、大丈夫なの?混乱する頭で必死に状況を把握しようと努めるリサの頭上から怒鳴りつける声。
「バカ、早くそこから出なさい」ナミは槍状突起を避けながら必死に圧縮能力を使って抵抗していた。「もう、私たちも限界よ。もうすぐ災厄のすべてがあなたに