第十章十一話 数多の光の器として

文字数 4,922文字

 リサの脳裏に、想像も成し得ないほどの力を含んだ大量の種々雑多な思念が混然一体となって土石流のように一気に流れ込んできた。
 あまりの勢いに止めることも抵抗することも逃げることもできない。ただ、怖くてしょうがない。まるで自分だけの部屋に知らない人々が雪崩(なだ)れ込んできたかのように、恐れしか抱けなかった。
 しばらくしても思念の流入は止まらなかった。もうとっくに容量を超えただろうと思われた後も一向にやむ気配を見せない。やがて、リサは恐れにマヒしてきた。代わりにとてつもない不快な感覚が込み上げてきた。
 ここは完全に私の場所、私だけの場所。それなのに……。入ってこないで。こっちに来ないで。いや、出て行って……。
 もう、身動きもできない。言いようもなく窮屈だ。こんなことならやめとけばよかった。やっぱり危ないことだったんだ。凪瀬(なぎせ)さんが言うように……。
 たくさんの小さな声が聞こえる。ぼそぼそと話している。何を言っているのか分からない。たくさんの声、たくさんの会話が、頭の中、いたる所で木々のざわめきのように鳴っている。私の中で話さないで。外で話して。
 不快が頂点に達して思わず声を上げた。やめてー!叫んでいた。来ないで―!でも、思ったより声が出ていない。他の声と同じようにぼそぼそとしか聞こえない。いや、なぜ入ってくるの。ここは私だけの場所なの。入ってこないで、出て行って。
 そう声を上げてみたものの誰にもその声は届いていないよう。ぼそぼそ、ぼそぼそ。誰もが自分が語ることに必死になっているようだった。無数の声が辺りに充満していく。ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ……。どうして誰も聞いてくれないの?どうしてみんな勝手に話をしているの?どうしてまだここにいるの?出て行ってって言っているのに。
 真っ白い場景の中に数多(あまた)の色が細太(さいたい)様々な線になって表れてくる。青、赤、黄、灰、紫、そんな色が入り交じりながら線を描いていく。線がにじみ色が広がっていく。描かれた線は古いものから次々に白に溶けて消えていく。そんな白の場景に、周囲から聞こえてくる声にあわせて淡い点が浮かんでは消える。声が増える度に点が増えていく。ぼそぼそ、ぼそぼそ、と。
 やがて、線と点は周囲の白を塗りつぶし、染め上げていく。消しても消してももう追いつかない。白は減っていくいっぽう。やめて、やめて、勝手に染めないで。勝手に色を決めないで。ここは私の、私だけの場所。
 ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ……いつまでも続く。
 ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ……治まってくれない。
 ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ……お願い、もうやめて。
“娘……”
 何を言っているのか分からない声たちに満たされた空間に、言葉が現れた。
“娘……聞こえるかえ……”
 聞こえます。リサはとっさに答えていた。聞き覚えのある声。これは、如月(きさらぎ)の声。
“娘、いいか。抵抗してはならん。流れ込んできたすべてを受け入れよ”
 そんなことを言われても……リサは戸惑った。こんな気味が悪くて怖くて不快な思いに耐えないといけないの?それは、とても、いや。
“もう、その流れは止められぬ。もう、受け入れるしかないのだ。神々の声を聞け。理解せずともよい。ただ聞け”
 どうやって?言葉にもなっていない声をどうやって聞いたらいいの?ただ不快なだけの声を。
“神々の声が聞こえないのは、そなたの声が邪魔をしているからだ。自らの声を消せ。ただ、黙すのだ。さすれば声が聞こえる”
 それは何も考えるなってこと?こんなに怖くて、こんなに不快なのに?それは、とても難しい。そんなこと無理だ。
“無理でもせねばならぬ。それが()(しろ)の勤め。そなたが抵抗すれば、神々は力を発現(あらわ)すことができぬ。その状態が続けば、神々の力はそなたを邪魔者として、そなたから追い出してしまう。そうならないためにも、今はただ黙して耐えよ”
 そう言われて何とかやってみようとリサは試みた。何も考えない、何も、考えない……。リサは気づいた。生きている人間が何も考えないのは生きているが故にとても難しいということを。それに今は、こんな状況だった。すべてのことに感覚が鋭敏に応じてしまう。感覚がすぐさま想念を生み出す。内なる声が間断なく生まれては消えていく。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど鼓動は激しくなり、ますます感覚は鋭くなっていく。やっぱり無理、私にはそんなことできない……
“そなたができなければ誰も、何も救われない。この郷も、我々も、そなたの大切な人々も。心配せずともよい。焦る必要もない。ただ、胸襟(きょうきん)を開いて流れ込んでくる御霊(みたま)を受け入れよ。そなたは器だ。ただ、静かに満たされることを待つのだ。そなたは器なのだから”
 器……。リサはイメージしてみた。自分の中に何かが溜まっていくイメージ。不純物の一切ない恐ろしく澄んだ清明(せいめい)な水、冷たくすべてのものを潤す水。降り注ぎ、染み込み、湧き出し、流れ出し、集まり、満ちていく……そんな水のイメージ。やがて凪もない穏やかな湖面の映像が広がった。どこからか水滴が一つ降ってきた。ぽちょんと水面に落ちた。そこを中心にきれいな円を描きながら波紋が広がっていく。それはどこまでも広がっていく。円はやがて広がりすぎて円として視認できなくなっていく。それでも波紋は続く。それぞれの方向に縁を結びに出向いているように延々と。
 ふと気づくと雑音のような声がやんでいた。自分の気持ちも落ち着いていた。ただ自分の脳裏の中で静かに揺蕩(たゆた)っていた。如月さん、声を出してみた。しかし応えはない。あれ?先ほどまであれほど賑やかだったのに、急に静かになった。ぽつんと一人取り残されたように。どうしたのかしら?(いぶか)しく思った。しかし、不安や恐れはなかった。自分でも驚くほど落ち着いていた。
 これでよかったのかしら?如月の声が聞こえなくなった。誰も何も教えてくれない。何が正解で何が最良なのか、分からない。しかし、今の揺蕩っている状態を不快には思わなかった。逆に常日頃から自分を縛りつけていた常識や良識や自分の想念などから解放されたように思われ、とても気持ちが楽だった。何の心配もない、何の不安もない世界にいる、そんな気がする。
 ああ、何かとても暖かくて、明るい。自分のすべてが陽光に照らされているような気がする。夜明け前の冷え込みに凍えた身体に射してくる旭日の光。縮こまっていた身体をほぐしていくような暖かさ、明るさ。希望に満ちた光、死を乗り越えた再生の光、生命を育む光、すべてのものを明るく照らし(いつく)しむ光、そんな光が自分の頭上から発せられている気がした。ふと彼女は見上げた。
 いくつかの光が尾を引きながらぐるぐるとゆっくり回っていた。とても大きな力を感じる。それまでいつも周囲にあったけれど気づくことがなかった大きな力。陽の光、大地の恩恵、海の恵み、水の潤い、樹木の癒し、山々の景色、風の涼感、そんなこの国に生きるものすべてを生かし、育むすべてのものがそこにある気がした。彼女はとっさに目を伏せた。きっとこれは凝視してはならないもの、そう思われてしょうがなかった。自分は器なのだ。器に徹することが大事なのだ。急にそんな想念が湧いてきていた。
 ただ、静かに、すべてが終わるまで、私は待っていればいい。リサは目を閉じ、口を(つぐ)み、耳を塞いだ。ただの器として……

 如月はただ一心に(ぬか)づいていた。その先には杉の大木の下、注連縄(しめなわ)が張り巡らされた斎場(さいじょう)の中で、座り込んた状態で、頭を下げ、目を閉じているリサの姿。どう見ても意識を失っている。先ほどから如月は願い続けていた。リサに対して。
 もう、神々の御霊はこの依り代の中に入った。後はこの娘次第だ。しかし、この娘、思ったより強い。すぐに神々の御霊の圧力に屈して自分を失くしてしまうかと思っていたが、ちゃんと自分を保ったまま御霊の流れに耐えた。後は娘が神々を受け入れられるか、器になりきれるかどうか……、娘よ、どうか、どうか、目を覚ましておくれ。
 ふと周囲の気配が変わった気がした。如月が顔を上げて前を見る。
 目を見開いたリサが立ち上がっていた。おお、如月は思わず声を上げた。娘、よくやった。心中で呟いた。

 ――――――――――
 
 神鹿隊(しんろくたい)が社殿前で防戦の陣を敷いたため、カツミは一人前方に取り残された状況に(おちい)っていた。辺り一面、すっかり水龍に取り囲まれていた。四方八方から攻撃を加えられている。何とか鎖鎌(くさりがま)で防いでいたが、全身傷だらけになっていた。
 先ほどから、一緒に突撃した春日の眷属からの、退()がれ、撤退せよ、という声が聞こえていたが、時すでに遅く、自力ではどうにも突破口を見出せず、何とも脱け出せない状況だった。
 水龍の群れの外にいたナツミは、そんな兄の状況を分かってはいたが、何の武器も持たない身では助けようにも何もできないままだった。ただ悲痛な表情をあらわにして、どうにかしないと、と必死に考えを巡らせていた。
 そんなナツミのかたわらに先刻から、剣を手にしたロクメイの姿があった。兄が心配なあまり敵の渦中に向かおうとするナツミをとどめ、敵の攻撃から守るべく必死に防戦していた。
 そんな彼らの横を鹿姿の眷属が一頭走り過ぎた。
 あれは、ロクオン殿、とロクメイが思う間に、頭を低く下げて頭上に雄々しく茂る角を前に向けて、水龍の群れに突っ込んでいく。
 突然のことに水龍たちの反応が少し遅れた。その間に、一番騎ことロクオンが次々に水龍を粉砕しながらカツミのもとへと一直線に駆け寄っていく。
 何て、無茶なことを、とロクメイは思いつつも、そうすることでしかカツミを救う手立てはないのだろうことも察せられた。それなら、とナツミに自らの持つ剣を手渡すと、すぐに変化した。そしてロクオンの後を追った。
 生まれ出た時から十三番騎だったロクメイは、すでに一番騎だったロクオンには常に世話をしてもらっていた。強さのみが正義の隊の中にあって、男たちは何かと助け合って生きてきた。特にロクオンは優しく親身になって接してくれた相手だ。有り余るほどの恩義がある。見す見す消滅させる訳にはいかない。
 もう、防ぎ続けるのも難しくなってきた、とカツミの心が折れそうになったその時、目の前に大きな鹿の姿が突如現れた。その鹿は前足を高く上げると眼前の水龍を踏みつぶし、横の水龍にもとっさに尻を向けて後ろ脚で蹴り上げた。その間も無数の水の刃や槍が向かってくる。もとから身体が大きいためにすべて避けるのは難しかったが、ロクオンは意識して避けずにその身に敵の攻撃を受けているようだった。その頃には周囲をロクメイが駆け回りながら敵に攻撃を加えていた。
 そなたは、とカツミが眼前の雄鹿に向かって声を発すると同時に、水の刃がその雄鹿の片方の角を根元から切断した。とたんにロクオンの身体が光りに包まれ人型に変化した。変化しながらロクオンは切断された角を手に取り、ロクメイの名を叫ぶように呼んだ。慌ててロクメイが駆けつける。
「この方を乗せて逃げよ」
 察してロクメイがカツミのかたわらに駆け寄る。その頃には、社殿前の隊員たちから幾筋かの矢が援護射撃として放たれていた。サホや弥生(やよい)としては男眷属たちの勝手な行動に気づいてはいたが、社殿を守らねばならないために突撃することもできず、さりとて仲間を見捨てることもできなかったので、かろうじて弓矢を持った隊員に援護射撃をさせていた。
 矢が降ってくるその間隙(かんげき)に、ロクオンはカツミの身体を、なかば無理矢理に一番若い部下の背に乗せた。何を、とカツミが声を発する間もなく、ロクメイが駆け出した。振り落とされないようにその首に手を回しながら、振り返る。一番騎と呼ばれていた眷属の身体に、全方位から攻撃が集中する。少しの間、鹿角を振り回して対抗していたロクオンも、やがて抵抗をやめてその場に仁王立ちの状態で動かなくなった。それでも攻撃はやまず、身体を削り続けていく。ロクオンはそのまま立ち尽くす。急速に細く、薄くなりながら。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み