第十二章十一話 闇中に声が鳴る

文字数 4,598文字

“もう、おやめなさい”
 自分の内なる深層から声が聞こえる。深く澄んだ鈴のような声。
“自分を傷つけ、自分を苦しめることに意味などない。やり遂げた先にあるのは、ただの自己満足。そこに真理はない”
「あなたは誰です?」
“私は御仏(みほとけ)の使い。お前を苦悩の沼から救いにきた”
「救う?でも、私は力を得なければならないんです。だからこの行をやり終えないといけないんです」
“本当にこの行を満願することで、そなたの望む力が得られるのか?”
「そうじゃないんですか?みんなが力を得られるって言っていたのですが」
“お前は浅はかすぎるな。どのような力を得られるのかも分からずに苦悶の中に身を投じたか”
「しかし私はあまりに非力なんです。だから少しでも力を得られるなら……」
“力はもう備わっておる。人間、生まれた時からその身に力を宿しておる。それに気づかぬとは何と無明(むみょう)な者であろうか”
 闇しかない空間にチリリン、チリリンと声が鳴る。静かに響いて脳裏を満たしていく。そのあまりにも澄んだ声に、タカシは自らの声が汚らしく(けが)れている気がしてしょうがない。だから声を出すことに気後れせざるを得なかった。
“世の中は苦しみに覆われておる。その中で更に苦しみを求めることに何の意味があるだろう。大事なのは苦しみから解脱すること。このような無益なことに意味はない。もう、おやめなさい”
 突如、全身からの激烈な痛みが脳髄を駆け巡った。変わらぬ闇の中だったので境界は曖昧だったが、きっと意識を失った状態から目覚めたのだろう。身体が動かない。強い痛みを感じる部分はまだ良かった。何とか動かすことができた。しかし、逆に痛みを感じない部分が動かない。傷が深すぎて感覚がマヒしているのだろう。その時、(ふところ)から何かがことりと地に落ちた。かろうじて動く右手でその場をまさぐる。すると布に包まれた細長いものに指先が当たった。それは間違いない自決用の短刀。これを使えばこの苦しみから逃れられる。もう、とても疲れた。ゆっくりと眠りたい。楽になりたい。しかし、左手は感覚がなく、指先さえ動かない。かろうじて動く右手だけではその包みから短刀を出すことはできなかった。もし、両手が使えて刃を(さや)から出すことができていたら……タカシは慌ててその考えを振り払い、震える手でその包みを懐に戻した。
 彼はそのまま長い時間横たわっていた。少しずつ少しずつ痛みが引き、身体の動かせる部位が増えていく。ようやく立ち上がれるようになるまで彼はそのままじっと待っていた。
 その間も鈴のような声がぽつぽつと聞こえてくる。
“力を得たいと思うのも欲。悟りを開きたいと思うのも欲。お前は欲にまみれているだけだ。苦しみから脱するために欲を捨てよ。あるがままの自分を受け入れよ。お前はいままで充分苦しんできた。御仏がきっとそなたを救ってくださる。信じて苦の円環を脱するのだ”
 しばらくして彼は立ち上がった。激烈な痛みに耐えたせいか頭の中はまだ虚ろだった。その中で、行かなくては、と心中呟き、手探りでまた進みはじめた。
“なぜ、お前は苦しみの道を行こうとする。なぜ、意味のないことをする。よく考え真理を見出せ。このようなことは無駄だと悟るのだ”
 聞きながら、なぜこんなことをしているのだろう、と思った。確かにこの行を満願した結果、本当に有益な力が得られるのか分からない。これまでも日々苦しんできた。現実世界でも何一つ思うようにならなかった。更に苦しむことに何の意味がある?苦しみしかない生ならば、わざわざ自分から求める必要などない。なぜ、こんなことを、こんな、意味も分からない、苦しいだけの、つらい行を、なぜしている?
“お前が望むことはただの欲。欲を捨てれば楽になれる。求めることを忘れ、平穏の中に安楽を見出すのだ。さあ、もう、こんなこと、おやめなさい”
 望んでいること、求めていること、本当にそれを捨ててよいのかどうか、確かめるためにその存在を思い出す。
 何を望み、何を求めていたのか、彼は静かに深くそれを見つめ直した。
 行をはじめるまでの経緯、この世界にいたるまでの記憶を思い出す……
 ああ、そうか。そうだった。
 彼はすくっと立ち上がった。心中、(みなぎ)るほどの意志が渦巻いていた。この行を必ず完遂する、という意志にあふれていた。
 風が吹いてくる。その向きから進むべき方角は見当がつく。彼の身体は気持ちの(たかぶ)りとは逆に余計な力が抜けていた。風に対し、地形の傾きに対し、身体を的確にしならせ受け流して、一歩々々進んでいく。
 そうだ、早くリサの所に行かないと。リサを助ける。そのために力を得る。もしここで有益な力を得られなくても、また他の方法を考える。今、できることをとにかくする、そう心の中で呟いていた。
“欲は欲を生む。欲に魅せられた者は未来永劫満足することなどない。欲を捨てるのだ。それしか救われる道はない”
 行の間、自分の感覚、思考を極力抑えつけてきた。ただ無心になって登攀(とうはん)せねば、自分の内から上がる悲鳴に押し潰されそうだった。だから、この行の目的も忘れていた。何のための行なのか忘れていた。
 リサを救う、それは確かに自己満足な欲なのかもしれない。しかしそれが自分を突き動かすすべての原動力となっている。それを否定してしまえば、何も救われない。少なくても自分は何ら満足などできない。だから、リサを救うための力を得る、というこの行の目的を忘れてはならない。けっして、それを否定などしない。
“お前は私の言葉を聞きもせず、欲という魔の虜になってしまったようだ。無明の者は未来永劫苦しみの円環より脱け出せぬ。そして私の言葉を無視したお前には仏罰が下る。生ある内は欲から逃れられず苦しみの沼に沈み、死しては地獄の業火に焼かれることになるだろう。これはお前が選んだことだ。悔やんでも逃れられぬぞ”
 滑落した先が道の上だったためにそのまま彼は道のりを進んだ。もう、風も足場の悪さも、頭の中に湧き出る声も気にならなかった。周囲に存在するすべてに対し、自分の身体と心が無理に抵抗せず、そこにあるものとして認識し、それに自然に対応していた。
 やがて長い下り坂が終わった。しばらく周囲を手で探っていると指先に岩が当たり、更に岩肌をたどると鎖が手に触れた。いよいよ最後の峰、修行峰の入り口。ここを登りきれば行は終わる。

 ――――――――――

 恵那彦命(えなひこのみこと)は自らをつむじ風に変え、水龍に乗るリサと地中に空いた大穴との間に立ち塞がっていた。
 リサの中にいる災厄の分御霊(わけみたま)の力は強い。それを息吹祓(いぶきはら)い除けるのは困難に思えた。だから相手に隙が生じるまで、こうして対峙して足止めをしていた。その間、互いに攻撃を加えるが、互いにすべてを防いでおり、攻め手を欠く膠着状態に陥っていた。
 そんな二人を背に、ナミがマコを両手に抱えたまま如月(きさらぎ)に声を掛けた。
「ねえ、やっぱり私はこのコを助けたい。どうにか生き返らせたい。だから道案内して」
 その声に、ナミ、何を、とルイス・バーネットが即座に反応した。ナミはそれを無視して言葉を継いだ。
「あなたは山崎リサ、あの()(しろ)の娘の足止めができたらいいんでしょ。協力するからその後、黄泉(よみ)の国まで道案内して」
 そう言われても如月としては突然現れた正体不明なこの男女のことをすぐには信用できなかった。ただ、自分一人ではどちらにしても目的は達せられないし、二人ともに強力な異能を有しているようだ。それなら話に乗った方が現実的ではある。
「そなたにできるのかえ?分御霊とはいえ災厄の力は強大だからねえ」
「できるかどうかなんて関係ない。必要があるならするだけよ」
 二人の女は視線を重ねあった。話し合うよりも雄弁なその視線で語り合った。その合間にルイス・バーネットが口を挟む。
「もし、山崎リサを足止めできたとして、依り代を得られなくなった災厄の本体は何もしてこないのかな?」
 如月は少しの間、考え込んだ後、口を開く。
「そうねえ。依り代の娘が生きていれば、また他の手を打とうとするだろうねえ。でも、もし依り代の娘が死んでしまったら、災厄にとってこの地は何の意味ももたないからねえ。肉体の腐り果てた災厄ならこの大地があろうがなかろうが関係ないから、一気に崩壊させてしまうかもねえ」
 それはまずいな、とナミもルイス・バーネットも思った。この世界は現在、この八村のみで構成されている。この地がこの世界そのものなのだ。それが崩壊することだけは避けなければならない。
「それなら、より一層、山崎リサを死なせる訳にはいかないわね。足止めして、可能なら分御霊を退治する。そして黄泉に行く。それが最善ね」
 ナミの言葉にルイス・バーネットが一息吐いた。ナミが言い出したら聞かないたちなのは彼が一番良く知っている。もう、これは決定事項なのだ。
「それで、どうするのかねえ。災厄は強いからねえ」
「そうね、進行方向で(さえぎ)って、分御霊の力を削れるだけ削る。ただし、この世界を守るために山崎リサを傷つけない。あくまで標的は災厄の分御霊。いいわね」
「依り代の娘を傷つけない?それは無理難題やなあ」
「彼女が傷ついて、もし万が一、死んでしまったら、それは即この世界の終わり。いちいち説明していると長くなる。とにかく私を信用して」
 ナミは冷徹な視線を如月に向けていた。その目には微かにも嘘が見られなかった。
「分かったわえ。それでええよ」と如月が微笑みながら答えたすぐ後に、背後から、
「うちも行く」というナツミの声と、
「私も行きます」というミヅキの声が同時に聞こえた。
 ナミと如月の視線が二人に向かった。ナミのそれは、あなたたちが役に立つの?とあからさまに言っていたし、如月は少し苦笑していた。そしてミヅキに向かって言った。
「そなたには大神様の御神体(ごしんたい)を守れと言ったよねえ。なぜここにいるのかねえ?」
「はい、大神様の御神体は斎場(さいじょう)の蔵の中に、確かに奉安(ほうあん)申し上げました。後は先輩方がおられましたので、託してまいりました」
 確かに斎場には、如月とともに神鹿隊(しんろくたい)を引退した眷属が二人残っていたので、その者たちに託しても別段おかしい話ではないが、如月としては別の思惑もあったので少し困っていた。
「そなたは大神様に選ばれた。これからの春日神社を、神鹿隊を担う者。こんなところで消え去ってはならんのだえ。分かるかえ?」
 ミヅキは返事を言い淀んだ。普段から普通に顔を合わせる仲ではあったが、めったに話をすることなどない。時々、声を掛けられて短く返事をするくらいのものだった。何せ相手は伝説級の武勇伝を身にまとう春日神社の眷属中で最上位の存在。面と向かえば、ただ、ただ気後れと緊張しかない。しかし、今は状況が違う。仲間たちが一気に消え、自分だけが残ってしまった。気分的には自暴自棄にならざるを得なかった。
「他に誰もいなければ私がお宮も隊も担うことになるのは仕方がございません。しかし、こんな郷中の一大事から逃げるような者が、その大任に相応(ふさわ)しいとは思えません。私がその任に相応しいのなら、どのようなことも乗り越えられるはずです。そうでなければ自分自信納得ができません。悪しからず」
 そう言うとミヅキは剣を抜き放ち、如月の横を通り過ぎてリサの後を追った。何か、このコ、人が変わったなあ。と心中呟きながら如月は微笑んだ。
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