第八章九話 郷の黎明

文字数 4,626文字

 マガに急かされるままにタマとヨリモは天満宮の眷属たちとともに天神村へと出発した。
 その姿を見送ってから、恵那彦命(えなひこのみこと)は自らの回復に専念するため神社境内(じんじゃけいだい)に戻っていった。白牛(はくぎゅう)が残った(まが)い者を掃討するために三人の眷属を残してくれていたので途中、特に足止めを喰らうこともなく境内に辿り着いた。
 そこに広がる惨憺(さんたん)たる光景。境内の中心に建つこじんまりとした本殿(ほんでん)だけを残して建物という建物がすべて崩壊している。周囲の木々は折れ、傾き、枝や葉が境内中に散乱している。
 しばらく呆然(ぼうぜん)と眺めた後、急に恵那彦命は苦笑した。きっとこれはマガが本来の姿を表して禍い者に対抗した結果なのだろう。そしてきっとその周りで玉兎(ぎょくと)が慌てふためきながらマガを落ち着かせようとしていたことだろう。その姿を思い浮かべて少し笑った。そして笑い終えた後、たった一人残された寂寥感(せきりょうかん)をひしひしと感じた。
 うさぎは助かるだろうか。マガは無事に帰ってこられるだろうか。
 恵那彦命は、(くさび)の片方を失くし、結界を失ったこの郷の行く末を表しているかのような眼前の光景に、ふと昔のことを思い出した。それはマガや玉兎に出会う前の記憶。この土地に縛られてしまう前の記憶。たった一人で、この郷に来るまでの記憶――

 ―――――――――――

 かつて大海原にあった。
 この世に蔓延(まんえん)する罪穢(つみけが)れを捕らえて、川に浮かべて海へと流す神々あり。
 その神々が大海原に流した罪穢れを、荒潮の波を司る神が呑み込む。
 その海中に呑まれた罪穢れを息吹(いぶき)放ちて波ごと遥か彼方に、彼らは吹き飛ばしていた。
 その先には()の国が待ち構えている。
 その国の神により、根の国(そこ)の国のどこかへ罪穢れは追いやられる。

 毎日々々、同じことの繰り返しだった。波に呑まれた罪穢れを日々、吹き祓い、もう二度と戻れない世界へと送り出していった。しかし、いくら吹いても吹いても罪穢れは減るどころか増えていく一方。いつまでこんなことを続ければいいのだろう。いつになったらこんなこと終わるのだろう。誰も教えてくれない。誰も答えてくれない。
 彼には数えきれないほどの兄弟がいた。みな同じ名前を共有していた。もともとは一柱の神だったからだろう。それが果てしなく広がる大海原中に流れ出てくる罪穢れに対応するために、御霊(みたま)を分け、更に細分化したのだった。
 あっちで吹き、こっちで吹き、波を飛ばし、罪穢れを根の国に追いやった。毎日、毎日、繰り返し、繰り返し。そんなある日、彼は一人の若い民草(たみくさ)の男に出会った。
 その男は小舟に乗って、沖合に()ぎ出していた。そして(あみ)を投げては曳き、投げては曳いていた。粗末な貫頭衣(かんとうい)を着た肌の黒く焼けたその男のことをしばらく彼は眺めていた。
 ――そんなところに魚はいない。
 彼はいつも上空から海を見ていた。だから潮目や波の状態で、どこらへんにどの魚がいるのかだいたい分かる。
 若い男は()りもせず網を投げ続けている。
 ――バカな男だ。少しからかってやろうか。、
 彼はそう思うと、ふうっと風を送り、その小舟を走らせた。若い男は驚きつつも抵抗もできず岸近くまでそのまま流されていった。
 若い男の狼狽(ろうばい)する姿に彼は思わず笑った。民草というものは何と滑稽(こっけい)なものだろう。そう思っているとその男がまた沖に向かって舟を漕ぎ出した。しばらくその様子を眺め、また男が網を投げようとすると、息を吹いて小舟を岸に返した。
 彼は再び笑った。すると、また若い男は舟を漕ぎ出した。そして、また舟ごと岸に押し戻された。そんなことを繰り返していると、やがて日が傾き西の空が朱に染まりはじめた。また岸に戻された若い男はようやく諦めてとぼとぼと家に帰っていった。深く肩を落とし、とても悲し気な顔をして。
 翌朝、ほんの少しだけその若い男が気になった彼は、男の舟が繋がれた岸に向かった。
 東の空から朝陽が顔を出す前から、若い男は漁の準備に余念がなかった。そして朝陽が顔を(のぞ)かせる頃、漁の準備を整えた男はおもむろに瓶子(へいし)を手にして波打ち際に進んだ。男は瓶子の中のお酒を打ち寄せる波へと(そそ)いでいく。
 中の酒をすべて注ぎ終えると更に男はその場に(ひざまず)き、(ひたい)を地にこすりつけるように平伏(へいふく)した。そしてそのままの姿で声を発した。
「海の神、風の神、八百万(やおよろず)の神たちよ。どうか我が願いを聴いてください。我はこの村の漁師、弥平(やへい)と申す者。どうか漁師たる我に漁師らしく魚を獲らせてください。どうか、どうか、お願い申し上げます」
 それまで民草そのものにもその生活にも特に興味を抱いてこなかったし、その男にとってどれだけ酒が貴重なものかも分からなかった。しかしその男の心からの訴えは、何か刺さるものがあった。民草に()()み奉られるとは何か面映(おもは)ゆい気分だな、でも悪い気はしない。
 それから若い男は舟を漕ぎ出した。彼はまた息を吹き掛けた。しかし、今度は沖に向かって優しく。そしてある地点で止めた。若い男は怪訝(けげん)そうな表情をしつつも、そこで網を投げた。すると大量の魚が網に掛かり、男は途中で引き揚げきれずに網を舟体に(くく)り着けて、岸へと戻っていった。
 岸に上がり、網を引き揚げ、網に掛かった魚をすべて取り終えると若い男は朝と同じように波打ち際に(ひざ)を着き、平伏して声を発した。
「風の神よ。今日は良い感じに吹いてくれて感謝します。海の神よ。今日はたくさん魚をお与えくださり感謝します。どうか、明日もお願いします」
 それからも彼は、その若い男を魚がたくさん捕れる漁場にちょくちょく連れていった。若い男は以前とは比べものにならないほどに魚が捕れるようになり、そのお蔭で生活に余裕が出るようになったので、また酒を買ってきて、海に注いでお供えした。
 彼は海から立ち昇る酒の気を吸って、良い気分になった。そして人の願いを叶えることを段々喜ばしく感じるようになっていた。
 罪穢れを根の国へと追いやる日々、何とも殺伐(さつばつ)とした毎日。楽しくも喜ばしくもない。しかしそれは大切な勤め。逃れることなど考えることさえはばかられること。各自、自分のやるべき勤めを果たす、そうすることで世の中は成り立っているのだから。
 毎日々々忙しい。追いやっても追いやっても罪穢れは絶えることがない。それどころか日々年々その数が増えていく。徐々に民草が増えている。その欲には際限がない。いつまでも罪穢れが増えていく。
 海が罪穢れに覆われてしまわないように彼らは励む、朝も夜も雨の日も。しかし彼はそんな中でも若い男のところに顔を出した。その漁を手伝い、男がゴロンと舟の中で横になって休んでいる時には、優しくそよ風を吹かせてやった。
 そんな彼の行動を仲間たちが薄々気づきはじめた頃、彼らに(めい)が下った。
 地上に存在するすべてを吹き祓うほどの大きく激しい風を起こし、すべてを押し流すほどの大量の雨を降らして、清め祓へ。
 誰がそんなことを決めたのか分からない。誰に命じられたことなのか誰も知らない。でも、それはただ、従うしかない言葉。反することなど考えてはならない命令だった。
 元を同じくする仲間たちはその命に従うべく集まった。そして、彼が足繁く通った、若い男が住んでいる漁村に向けて風を起こすことが決まった。
 集まった彼らは風を吹き、頭上でそれを回していく。やがて黒い雲を含んだ巨大な風の渦ができあがった。彼らはそれを若い男がいる村へと押しやった。
 これは仕方がないこと。彼は自分で自分に言い聞かせた。民草一人のために命に(そむ)く訳にはいかない。民草のいる地上から罪穢れが生み出される。だから増えた分、民草もろとも地上の罪穢れを祓わねばならない。これは仕方がないこと。それが世の中を成り立たせているこの世の(ことわり)なのだから……
 しかし、彼の脳裏には民草と交わった記憶が色濃く残っていた。民草が彼に願い、彼は恩恵を与える。それにより民草は感謝の(まこと)(ささげ)げ、供え物を供えてまた祈る。供え物の気を吸って力を増した彼はまた民草の願いを叶えようとする。本来、神と民草との関係はこうあるべきなのだ、と思わせるほど彼は民草の願いを叶えることが当然のように、自分の使命のように思えていた。だから、彼は飛んだ。自ら一陣の風となって巨大な風の渦を追い越して漁村に向かった。
 漁村では近づいてくる不穏な雲の渦に戦々恐々と人々は(うわ)ついていた。
 突然、湧き起った災害の予感。
 もう、舟や漁具を持ち出す余裕はない。せめて命だけはと必要最低限の生活用品を抱えて、風や波が直接襲いくる海岸沿いの村から裏の高台の林に向け、人々が避難していく。その中に、顔見知りの若い男。古びた、どう見てもこれからくる風雨には耐えられそうにない粗末な小屋のような家から、病に伏せていた母親を背負って避難していく。そこへ強く風が吹いてきた。徐々に勢いを増して吹き寄せてくる。頭上には濃厚な黒雲が集まりながら今にも雨を降らそうと頃合いを見計らっている。
 このままでは母は助からぬかもしれぬ。こんな突然の嵐の日、ちょうど沖合に仲間と漁に出ていた父親は帰らぬ人になった。残された息子はまだまだ漁も満足にできない不孝者。あまりに不憫(ふびん)でならない。どうか、母だけでも助けたい。そう、若い男は思い、そして一心に祈った。
「風の神よ。いつも我に恵をお与えくださる風の神よ。どうか、母を助けてください。その怒りを鎮め、穏やかにおなりください。その代わりに我が命を捧げます。この命とこの身を供えます。どうか、気をお鎮めください」
 その声は確かに彼の耳に届いていた。だから、若い男とその母親の前に立ちはだかると向かいくる強風に向かって息を吹いた。
 雲は形を崩し、強風は向きを変えた。彼は息を吹き続けた。完全にその嵐が方向を変え、この漁村から遠ざかるまで。
 やがて風はそよぐばかりとなった。雨も数滴降ってやんだ。突然、心変わりをしたように向きを変えて遠ざかっていった嵐に驚きつつ、顔を上げた若い男は、これも風の神の恩恵だと思い、再び一心に感謝の言葉を念じた。
“神よ。(いや)び奉り(かたじけな)み奉る。どうか我が身、我が命をお納めください”
 そしてただひたすら平伏した。その耳に頭上から声が聞こえた。
 ――民草よ、息災であれ。
 驚いた若い男が声のした方に視線を向けた。すると一瞬だけ、何か人のような姿を風が形づくっていた。しかし、それはすぐに消え、さっと風が吹いた。後には()いだ波の音が聞こえるばかりだった。
 彼は飛び続けた。山を越え、村を越え、また山を越えて、村を越え、どこまでも飛び続けた。彼はもう仲間のもとへは帰れなかった。自分は仲間を裏切った。命令に背いてしまった。帰ればただの風にされてしまう。心も持たないただの風に。
 やがてある山並みを越えた先で彼は動きを止めた。そこにはぐるりと青山垣に囲まれた陽だまりの盆地があった。まるで山々の連なりに守られているかのような穏やかな土地だった。ぎらぎらと降り注ぐ陽の光に樹々の緑が笑うように輝いている。
 ああ、ここだな、我はここに鎮まりたいと思う。
 彼はその盆地中をぐるりと回ってみた。神々はおろか民草の姿もない。しかし、そよ風に揺れる樹々の葉の音、獣の走る音、虫や鳥の鳴き声、そんな生命の音に(あふ)れていた。(にぎ)やかだ。しかし、心地よい――
 彼はそこに鎮まることにした。そしてこの地を囲っている山々を胞衣(えな)(胎盤)になぞらえて、この地を“えな”と名づけ、自らの名を恵那彦と改めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み