第十章四話 なす術もなく身を寄せ合う

文字数 4,908文字

 その音は、地を、建物を揺らしながら激しく間断なくバリバリと鳴り続けた。驚き戸惑う社殿内にいる者たちを尻目に、サホはすぐさま拝殿(はいでん)の前面まで走り寄る。彼女の眼前には開かれた扉の外、暗闇に溶け込みながら激しく降る雨。それはまるで、すぐそこにかなりの水量の滝が流れているかのよう。
弥生(やよい)!」雨は激しく音を立てている。それに負けぬように、拝殿横の扉に向かってサホは声を上げた。「村内の地崩れを起こしそうな場所に隊員を行かせ、民草(たみくさ)を守れ。また、境内(けいだい)に民草が避難してくるかもしれぬ。その準備と移動路の安全確保を……」
 言い終わらぬうちに扉のすぐ外にいた弥生が答えた。
「無理です。あまりの雨の勢いに立つことすらできません。この中では隊員の身が危ないばかりで、ろくな勤めなどできません。雨足が衰えるまで待ちましょう」
 弥生も声を張り上げている。すでに豪雨の洗礼を受け、全身ずぶ濡れだった。身をもって経験した現状に、断固とした態度を見せていた。
「分かった。雨足が衰えるまで待機。境内や隊員に被害がないのか。被害があればすぐに対応せよ」サホは厳しい顔つきをしたまま言い放った。
「承知」そう言うと弥生はどこかに消えた。

 その頃、社殿の外では、ミヅキが雨に打たれたまま、外に出ていた眷属たちの避難の誘導をしていた。とはいえ、叩きつけるように降る雨の勢いに立っていることもできず、移動もままならない。もちろん、声を出しても伝わらず、目を開けていても視界は悪く、状況が掴めない。
 境内は北方以外をぐるりと山に囲まれてはいたが、平地の只中に立地しており、これといった崖や斜面に接していない分、地崩れや鉄砲水の害を被ることはないと思われた。それだけが救いだったが、そうは言ってもいつ境内の建物や木々が倒れ、崩れるか分からないほどの雨勢だった。
 かろうじてミヅキは視認できる範囲の眷属のもとまで移動して、手を貸してやりつつ近くの建物へと誘導していった。
 身体中がもれなくずぶ濡れだった。水中にいる以上の動きづらさを感じる。周囲に視認できる眷属の姿がなくなるとミヅキも屋内に避難しようと思った。その時、ふと気配を感じて北方向に視線を向けた。
 遠目に見える異変。
 荒れ狂うように降っている雨がそこだけは避けている。その一部だけは大気が穏やかに漂っている。悪い視界を()らして見る。民草の女の姿が見える。全身に水の衣をまとい、足元に(たた)えた雨水の上を滑るように、たった一人こちらに近づいてくる。
 それがただの民草の女でないことはその様子からも、その雰囲気からも分かった。現在の周囲の状況と近づいてくるその女の姿に、言い知れぬ不穏な空気をミヅキは感じざるを得なかった。そして思い起こした。先ほどの伝令の言葉を。
 民草の女が湖面に現れて、睦月(むつき)を……

 ――――――――――

 突然、降り出した瀑布(ばくふ)のような雨に、旅を再開させていたタマたち四人は慌てて林の中に駆け込み、大木の下に避難した。あまりの水量に四方八方から飛沫(ひまつ)が跳ね飛んでくるのでどちらにしても全身ずぶ濡れにはなったが、直撃を避けられるだけでもまだ助かるといった勢いの雨だった。
 空が、低く垂れこめる厚い雲に覆われていたので、夜目の利かないヨリモだけでなく他の者たちの視界もほとんどない状態だった。とにかく地を揺るがすような激しい雨音だけが周囲を制圧していた。
 そんな中、ヨリモはただ一人、茫然自失の心境だった。大木を捜し出してその根元に身を寄せるまでに、離れ離れにならないようにタマはヨリモの肩に手を回していた。タマとしてもすぐ近くにいるヨリモの姿が満足に見えない。もし、はっきりとその姿が見えていたら、そのようなことは躊躇(ちゅうちょ)していたのかもしれないが、見えないがためにごく自然にヨリモの身体を自分のそれへと引き寄せていた。ヨリモの心中では状況に対する言い知れぬ不安とタマの大胆な行動に対する戸惑いと高揚感が激しくせめぎ合っていた。

 蝸牛(かぎゅう)は二人から少し離れた木の下に、マガを背負ったままの状態で身動きもとれず、ただじっと立っていた。全身ぬれそぼっていたが、背中だけはマガの生温かさを感じていた。そして、こんな状況の中でもマガはジッと動かないまま何の反応も見せなかった。
 二人はいったいどこにいるのだろう?真っ暗で、すべての気配が雨に消されている。それほど離れていない場所にタマもヨリモもいるはずだったが、一向にその存在を感じることができない。このまま雨がやむのを待つしかないのか、そう蝸牛が思い、他にどうしようもないので、しばらくそのままジッと動かずにいると、ふと、どこからかバキバキと木々が折れるような音が聞こえてきた。それはほんの微かだった。猛烈に降る雨が木々を打って奏でる猛々しい音の層に混じって心許(こころもと)なげに耳朶(じだ)に響いてくる。何の音だろう、と思っている間に、どんどんとその音が大きくなっていく。そして徐々に近づいてくる。
 彼らのいた場所は、東北方向に緩やかな傾斜が、遠い先に連なる山々に向かって続いていた。おまけにちょうどその傾斜の中で少しばかり低く、緩やかに谷を形成している低地の先に位置していた。普段なら、伏流水がたまに湧き出て小さな流れを見せたかと思うと、すぐに地中に吸い込まれてしまうようなせせらぎもない谷だった。しかし、今、水なら地中に吸い込まれるよりも遥かに多く地に供給されている。あふれた水が流れ、集まり、その集まりが更に固まりとなって木々をなぎ倒し、地を削りながら更に最低地を目指して怒濤(どとう)の如く流れくる。
 ごごごご、ばきばきばき、ざざざざ、と地を揺らしながら巨大かつ不穏な音が近づいてくる。
「蝸牛、左に走って。早く」
 背中から声が聞こえた。その途端、蝸牛は駆け出した。視界がなく、足元がこれ以上ないくらいに悪い現状、思い切り走ることには抵抗があったが、それを凌駕(りょうが)するほどの不穏な音が近づいている。とにかく走る、それだけに集中した。
「前に木がある。少し左に、そう。今度は右に。そこ、木の根があるから気をつけて」
 何度もつまずき、何度も木々に身体をぶつけながらも、マガの指示に従いながら蝸牛は走った。しかし、もとから足は速くないし、足元はぬかるみ、滑り、まっすぐに走ることもできない。それほど距離を稼ぐことができない。そうこうするうちに急に足元が水に(ひた)った。
「跳んで!」
 マガの声に蝸牛は一瞬、踏ん張ると跳び上がり地から足を離した。暗くて見えはしなかったが、自分の背後から前に向けて、何かが顔の横を伸びていったのが分かった。
 マガの伸びきった両腕は前方の離れた場所にある大木の幹を掴むとすぐさま収縮をはじめた。それにともない蝸牛とマガは宙を飛び、やがて地に降り立った。その背後では大量の雨水が土砂や木々を巻き込みながら何者にも止められない勢いを保持したまま流れていく。視界が悪すぎて、その様子は見えないが、蝸牛にはその音だけで、その流れに巻き込まれてしまえば助からないことは明かに思えた。そして、タマとヨリモが巻き込まれていないか不安になった。彼らは自分たちとあまり離れていない場所にいたはずなのだ。
 蝸牛が二人の名を叫ぶ。何度も、何度も。しかし容赦なくそのすべてが雨音に掻き消された。

 タマとヨリモは周囲を圧する轟音とともに突如、襲い掛かってきた大量の流水に巻き込まれて一瞬にして下流へと流されていた。
 タマはとにかくヨリモと離れないようにその肩を抱きしめていた。折れた木が、流される石が身体にあたる。痛みが全身から脳天に突き上げてくる。闇の中、自分が今、どこを向いているのか、上下左右も分からない。いったいどこに向かっているのか、何も分からない。ただ、ヨリモの身体を包む腕に更に力を込める。
 ヨリモはタマの腕の中でひたすらに縮こまっていた。この先、何が待ち構えているか分からない恐れ、戸惑い、不安。思い切りタマにすがりつきたいし、実際、もう身を任すしかなかった。そのことに何の抵抗もない。ただ、心ににじむのは、せっかく、やっとこうして身を寄せあえる状況を向かえたのに、それがもうすぐ終わってしまう、その予感に対する切なさ、やるせなさ。どうか、助けて、大神様。助けてください。
 ふと、暖かさを感じた。柔らかく優しい暖かさ。
 ヨリモが閉じていた目を開くとそこは光り輝いていた。とてもきれいで心地よい光。タマの身体から粒子が分離して(まばゆ)く光り輝きながら二人の身体を包んでいた。
 気を許すとこの鉄砲水に完全に呑み込まれてしまう。制御を失い、いつしか気を失い、ヨリモと離れ離れになってしまう、そう思うとタマの心底から、襲い掛かる強大な圧力に対して抵抗したい気持ちが喚起され、湧き起り、あふれ出した。自分でも気づかぬうちに自分の身体が分離をはじめていた。
 ヨリモとしては、ほんの身近だけだとしても視界が確保されたことで言い知れぬ安心感を得た。タマの粒子が身体を包んでくれているお蔭でもう水を感じない。確かに折れた木々や先々に立つ木々にぶつかり衝撃を感じることはあったが、痛みを感じるほどではなかった。このままならこの状況を乗り切ることができそう。でも、こんなことを続けていてはタマの身体がきっともたない、そんな予感もする。だから、止めた方が良い気がする。しかしそれを声高に言うにはあまりに安心感に満たされた空間だった。ずっとこのまま包まれていたい……
 行く先にあるすべてのものを呑み込みながら、他と比べて低地になっている郷の中心部に向かって、とどまることもなく突き進んでいく流れとともに、地形に沿って右に左に振られながら流されていく。やがて突如、視界が開けた。郷の中心部、湖へと彼らは流れ出た。
 二人にとっては暗くてよく分からなかったが、湖の水深はかなり低くなっていた。最も深かった時に比べると半分以下になっている。湖水は延々と、湖の中心で渦巻きながら上空に立ち昇り、雲になり、すぐに雨となって降り注ぎ、また湖に戻っている。終わりなく循環しているよう。
 二人を運んでいた鉄砲水は湖に流れ込むとその役目を終えたと言わんばかりに広がり溶け込み、やがて勢いを消失させた。代わりに二人は目前で上空に伸びている水の渦に周囲の湖水ともども急速に引き寄せられていた。
 想像もできない強大な力。これが災厄の力なのだろう。それに比べてあまりにも小さな存在でしかない自分たちは、このまま渦に巻き込まれてしまえば、きっと上空まで持ち上げられてしまう。それに向けて、激しく引き寄せられていく。二人はなす術もなくそのまま流されていく。
 どうにかしたい、二人ともが無理なら、せめてヨリモだけでも。そんな思いが脳裏をよぎると自然とタマの口から言葉が出た。
「ヨリモ、変化(へんげ)しろ。この雨の中では飛ぶのは難しいかもしれないが、どうにか飛んで逃げろ。早く」
 渦巻きの立てる怒濤のような水音、湖面を激しく叩きつけるように降る雨音、そんな耳朶に強烈に押し寄せてくる不穏な音の固まりに混じってタマの腹の底から出したと思われる気持ちの乗った声。一瞬、ヨリモは何を言われているのか分からなかった。変化する?私が?飛んで逃げる?この雨の中、この暗闇の中をあたなを置いて?何を言っているの?私はそんなことをする気にはなれない。そんなことしたくない。
「いやです。一緒に行きます」
「バカ、あの渦は災厄の力が顕現したものだ。巻き込まれたらどうなるか分からない。どちらにしても我はもう逃れられない。せめてそなただけでも逃げてくれ。頼む」
 渦はもう目前だった。視界いっぱいに不気味に広がり無遠慮に、無慈悲にも彼らを取り込もうと引き寄せている。早く、ヨリモを、そう思いつつ視線を向けた。
 ヨリモは両手でタマの装束を固く握り締めてその顔を見上げてしっかりとした視線を送っていた。
「私は逃げない。あなたと一緒にいます。一緒にいさせて」
 断固とした口調。もう決心しているようだった。タマは観念した。そしてふと微笑んだ。少し嬉しかった。
 そのまま二人は渦の中に巻き込まれた。上空へ。
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