第六章六話 蝸牛、一閃矢を放つ

文字数 4,034文字

 それほど背の高くない広葉樹が密集している森の中を、ナツミとタマと蝸牛(かぎゅう)の三人が小走りに駆けていた。
 頭上の樹冠にも足元にも旺盛な生命力を破裂させたかのように無数の葉が生い茂っており、湿度が高く、薄暗い。葉に隠れて足元には通れる道など見えないが、先導するナツミは迷うことなくためらうことなく足早に進んでいく。そのすぐ後を、これが蛇道だろうか、と思いつつタマが同じ個所に足を置きながら進む。ナツミはタマが遅れだすとその都度(つど)立ち止まり、少し待った。たまに手を伸ばしてタマの腕を引いたりした。うちから離れると蛇道を見つけるのは大変よ、ぴったりとうちから離れないようにして、と言いつつ。
 そんな二人から少し離れて蝸牛はついていく。次第々々に二人との間が開いていく。二人が踏んだ場所を進んでいるつもりだったが、少しも道を歩いている感じがない。鬱蒼(うっそう)とした茂みを切り開くように、層になって足元にからみつく枝葉をかき分け、かき分け進んでいった。もとから足の速い方ではない。どちらかというと遅い方。だから尚更二人との距離は開いていくばかり。たまにタマが気にして振り返り、追いつくのを待とうとする。しかし、すぐナツミに促されて先を急ぐ。まあ、仕方がない。自分の足が遅いのが悪いのだ。左手から時折、水音がする。ずっと川沿いを移動している。迷うことはないだろう。だから、またタマが立ち止まって自分を待っている様子を見せると、自分は後から行く。先に行ってくれ、と前進を促した。分かった、とタマは答えてすぐに先へと間隔を広げていった。
 それから少しの間、そうして進んでいたが、ふとナツミが立ち止まった。臥龍川(がりゅうがわ)から何か変な気配がする。時折、()ぜるような物音も。とっさに左側に進路を変えて低木と生い茂るシダ植物やつる草をかき分けながら川に向かった。タマもその後を追い、蝸牛も続いた。
 蛇道から外れたため、進むのに難儀したが、ナツミは手に持った(かま)で足元の障害を()ぎながら進んでいった。やがて、森の端に達した。そこには満々たる臥龍川の水流。
 ナツミとタマは川面より一段高くなっている岸に足を止め、しばし目の前の場景を呆然と眺めた。
 湖から少し川に入った所、水面の上に土気色の壁、むくむくと盛り上がりながら宙空へと伸びていた。色合いからも動きからも、それが(まが)い者の集団なのだろうことは分かる。しかし個々が通常の禍い者に比べて格段に大きい。人でも丸呑みにできそうなほどの大きさ。水面から後から後から湧き出している。それが折り重なり、連なって上へ上へと登っている。やがてある一定の高さにまで達すると突如、そこに注連縄(しめなわ)が現れて、その先頭の禍い者がバシッと衝撃音を響かせながら弾かれて落下した。更に次に登ってきた禍い者が同じように弾かれて落下していく。何度も何度も飽きずに同じことを繰り返していた。それは何とも痛ましい、惨憺(さんたん)たる光景。禍い者には痛覚も恐怖心もないとは分かっていても思わず目を背けたくなる。消滅するために高みへと昇っていく、何かに憑りつかれたような様子。
 禍い者たちが結界に向かっていることは明らかだった。
 結界の強さはその場所を担当する神の力に比例する。だから強大な力を有する自らの仕える大物主大神(おおものぬしのおおかみ)ならば、このくらいの攻撃など何の問題にもならない、とナツミは思ったが、それでもぬぐいきれない一抹の不安が頭をもたげていた。
 大神様には、眷属である自分でも生まれてこの方、ほんの数回しかお目通りが叶っていない。正直、その大御神意(おおみごころ)を察することなど、とても無理。だから何となく少し不安。大神様はこの郷を守り切るつもりがあるのだろうか、人々や村のために結界に力を与え続けるつもりがあるのだろうか、自分を疑いの目で見る他の神々とともに結界の輪を保ち続けるおつもりがあるのだろうか……ナツミの脳裏にふいにそんな言葉が湧き起ってくる。慌てて頭を振って払い落とす。眷属である自分が大御神意を推し量る必要などない。ただ、するべきことをする、それだけ。
 それにしても、これほど巨大な禍い者を見るのも、これほど一つ所に集まる禍い者の群れを見るのも、ナツミもタマも初めてだった。一体々々なら特に恐れる必要などない禍い者だったが、これだけ大量に集まっていると思わず圧倒されてしまう。
 ナツミは少しの間、迷った。眷属として村を守るためにここで禍い者の群れと対峙する必要があるとは思ったが、タツミのことが心配でならない。一刻も早くカツミと合流して兄様を助けたい。そんなナツミの背後にやっと蝸牛が追いついた。
「見てみろ。こんな禍い者の群れなど見たことがない。奴らは結界を破ろうとしているようだ」タマが振り返って蝸牛に声を掛けた。
「これは、大変なことだ。まだ後から後から現れている。どうにか対処しないと」このような状況でもゆっくりと落ち着いて話す蝸牛の声にタマの早口の言葉が(かぶ)さった。
「ああ、禍津神(まがつかみ)の方はいったん後回しにして、先ずはここを守護しよう。この村の眷属は今、このコしかいない。ここを守れるのは我らだけだ」
 その言葉をナツミは黙って聞いていた。まだ自分の中でどうするべきか判断がついていない。蝸牛は少しの間、考え込む様子を見せた。それを見てタマが(いぶか)しんだ。
「どうした。何か気になることがあるのか?」
「いや、考えてみたのだが、現状、湖に禍津神が現れた。そしてこの禍い者たちも湖から出てきておる。もしかしたら、これも禍津神の行いが原因かもしれぬ。なら、禍津神を倒すことが先決なのではないか。おぬしたちは禍津神討伐に向かった方が良い。ここは、おぬしらが事を成し遂げるまで我が死守しよう」
 その従容(しょうよう)とした蝸牛の声にナツミは決心した。うちは湖に向かう。そのまま蝸牛の前に近づきその目を見つめた。ナツミの背は蝸牛の肩にも達していない。だから自然と見上げる形になっていた。その自分を見つめるナツミの顔を、蝸牛は正視することができなかった。
 天満宮(てんまんぐう)の眷属は飛梅(とびうめ)を除き他はすべて男眷属。だから若い女性とこのように接近して対することがほぼなく、不慣れこの上ない。何やら胸の中がわさわさして騒がしい。不快という訳ではないが、何やら居心地が悪い。
「あなた、名前は何と言うの?」
「わ、我は蝸牛と申す」
「蝸牛殿、ありがとう。どうか、うちの村をお守りください、お願いします」言いながらナツミは深々と頭を下げた。蝸牛は慌てて答礼した。
「そなた一人で大丈夫なのか?もし結界が破られることがあれば、大量の禍い者と対峙せねばならなくなるぞ。一人では手に余るだろう」
 覚悟を見定めるような視線がタマから蝸牛に向けられていた。蝸牛は小さく頷いた。
「早く行くのがよろしい。マコ殿とナツミ殿の兄上を必ず助け出してきて下され」そう言う蝸牛にタマはしっかりと頷いた。こいつなら大丈夫、そう自分に言い聞かせながら。なんたってこいつは我とヨリモを同時に退けた手練(てだ)れだ。どんな状況でもどうにかしてくれるだろう。
 すぐにナツミとタマは湖に向かった。一人残された蝸牛は束の間の緊張から解き放たれてほっと一息吐くと、川岸から水面を見渡した。足元、すぐ近くに浅瀬がある。流れもそんなに早くない。ざぶんと音を立てながらその場に降り立った。そして手に持ったヨリモの槍を濡れていない陽だまりの砂地の上に突き立てた。この槍は大切なものだとヨリモは言っていた。だからここまで大切に持ってきた。もし、もう直接返すことができなくてもここなら目立つからすぐに誰かが見つけてくれるだろう。そう思いながら蝸牛は肩に掛けた大弓を下ろし、(えびら)から矢を抜き出した。
 この弓は兄たちが作ってくれたもの。普段、天満宮の眷属たちが使っている弓は、蝸牛には小さすぎた。矢をつがえて引くときに胸を張り切ることができず、見ているとどうしても窮屈な印象がぬぐえなかった。それを見兼ねた何人かの兄たちが力を合わせて作ってくれた。その兄たちの誰も一人では引けない弓を、蝸牛は難なく引くことができた。ちょうど良い感じに反発するしなり具合、引き切った時の張り具合といい、最初に手にした瞬間から、これ以上ないくらいに自分によい加減だと感じた。さすが兄者たちだ。いつも兄者たちは自分のことをよく見守ってくれている。恐らく自分以上に自分の悪癖や短所に気づいていて、いつも改善するように指導したり、補ってくれたりする。そんな兄者たちとともにいると、我はどうしても甘えてしまう。しかしそれではいつまで経っても一人前の眷属になれない。そう飛梅殿はお考えになられて、自立するための修行の意味合いで今回、我は旅に出されたのだろう。なら、危険や苦難を避ける訳にもいかない。大神様や飛梅殿や兄者たちの期待に応えられるようにならないといけない。こんな所で二の足を踏むような臆病者、そんな兄者たちにとって恥ずかしい弟にはなりたくない。
 矢をつがえ(つる)を引き絞った。目の前には見上げるような禍い者の壁。空高くから水中、そして地底深くまで達する結界の先には禍い者たちは進めない。身もだえるように(うごめ)きながら土気色たちは結界に取り憑いている。
 蝸牛は狙いを定めた。相手は巨大な集合体。外すことは考えられない。しかし矢に限りがある。兄者たちからたくさん持たされていたとはいえ三十本ほどしかない。だから少ない本数で最大限の効果が得られる場所に射る必要がある。
 結界の核心部分としての注連縄にまた禍い者が触れて弾かれ、千々(ちぢ)に分裂しつつ、下に蠢く仲間たちの上に落下していった。その欠片を下にいた禍い者が大口開けて待ち受けて呑み込み取り込んだ。
 狙いは壁の重心、一番力の集まっている一点。そこは禍い者が幾重にも層になっている箇所だったが、この強弓なら貫ける。蝸牛は確信していた。兄者たちの作ってくれたこの弓矢なら。
 蝸牛は、眼前、ひっきりなしに蠢く禍い者の壁に向かって、一閃矢を放った。
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