夢月は会議に参加せず、このソファで眠っていたな。
息がかかる距離で目を見てはっきりした。この子は俺に惚れていない。
なのに夢月はうるんだ瞳を閉じる。
俺は彼女の濡れた髪が頬にかかるのをなおす。とてつもなく愛おしい……。
彼女へと倒れこむ。潮の香りの髪。彼女によく似合う。
夢月はびくりとするけど。
さすがに無理だ。レイヴンレッドめ、俺ばかり狙いやがって。しかも上から背後から……それ以前に夢月にもやられたな。まあいいか。
人の肌のぬくもりで精神エナジーが回復するのを感じる。でも、あの病室のように傷を舐めあう安らぎではない。いまは夢月のエナジーを一身に浴びているかのよう。
俺が望み、彼女が受けいれて開放したかのように。
竹生夢月が俺の背中に手をまわす。彼女が目をつぶったまま微笑むのが分かる。六階の(月の引力で)オープンされた壁からは、まだ朝の空気が伝わる。
与謝倉凪奈の声がした。
俺と夢月は上半身をあげる。
戦いが終わるなりお互いを求めあうとは、やはりテロリストは野蛮な獣だな。布理冥尊の護教隊員は、精霊同士の恋愛をゆるされない
獣と化したハウンドピンクがいた。その姿は……段差を抱えてあげるサイズの、ピンク色の豆柴犬。しかも、もふもふ。
宴の後の結界だ。
この中では、べつの自分に変わることはできない。それを見おろす私以外は
彼女の上空で桜の花びらが渦を巻く。人影がすとんと着地する。
レイヴンレッド――。
……ハウンドさあ。私さあ人に戻ったよ。
最強形態ならさあ解除されず突破できるって言ったよね。私さあ精霊が自称一個だけでしょ……一個かな、一人かな、一体かな。
それでさあ、あれをさあ最強扱いしてもらわないと困るんだけどさあ。
あっ、鳩時計
サンダル履きで白Tシャツに紺色デニムの焼石がのんびり言う。
柴犬が苛立ちげに歯ぎしりした。
それは自己責任だ。
“宴の後の結界”を解除したら奴らも変身するだろ……他の二人は?
それがさあ。ウミミミミミミミがさあ、穴に引っかかってさあ。パックも来れないよ、きっと。
……ハウンドさあ。パックはやばいよ、きっとさあ、マジで裏切っている。演技でなくさあ
ばらすな! あいつは惑わしの妖精だ。お前まで惑わされやがって
のんびり喋らないでくれ。この二人を連行すれば作戦は――
キャイン!
子犬が吹っ飛び闇のカーテンにぶつかる。続いて焼石も飛ばされる。
私は生身でも強烈な魔法が使える。月明かりをだせないだけ。
喰らえ!
花吹雪! キャイン! ……なんで効かないの?
キャイン! キャイン、クーン……
痛いなあ、痛いって、痛……。夢月さあやめてよ。焼き芋を半分あげたの忘れた?
……あ、名前言っちゃった。ハウンドさあ、忘れてね
お前の話など聞いていない。
……この姿にここまで容赦ない攻撃とは、貴様もコールドレッドだな。
花筏!
柴犬の上を淡いピンクが流れだす。夢月が手のひらを広げるが、川の流れのように魔法を二股に避ける。彼女が桜の花びらに包まれる。
生身相手のあらゆる攻撃が霧散して、ピンクの豆柴に怯えが走った。こりゃ親衛隊隊長も逃げるわけだな。
俺も戦わないと。俺にできること……。ひとつだけある。司令官が名づけてくれた技。
俺の叫びに、夢月へと身構える彼女が俺を見る。馬鹿め。
俺の性フェロモンを喰らえ。目を見開き見つめ続ける。
瞬間にして永遠。
焼石嶺真の頬が――。
ハウンドさあ。こいつがソシガヤ?
なんかさあ想像してたのと違う。平凡っていうか地味っていうか
俺は祖師谷レッドではないが、小犬へと俺を指さしている……。 なんてことだ。というか、さすがレッド。こいつにも俺のウイルスは効かない。だとすると俺は戦いの傍観者だ。
私さあ男に興味ないからどうでもいいし。
……凪奈さあ、女にもないから心配しないでね。私はさあ、ぶぶ漬けランドのテロリストと違うから。
あのレッドとは
これはレイヴンレッドの作戦なのか。戦いに緊迫感が生じない。手加減しない夢月でさえ攻撃の手を休めている。
でも睨む。
ヤマユレッドちがったレイヴンレッドめ、変身しろ。
女剣士バージョンになった私と勝負しろ。ルビーソードと勝負しろ
……ふーん。レッドタイガーソードとね。いいけどさあ、月明かりなしだと私に勝てないよ。
ハウンドさあ、宴会の後の寝ゲロの結界を解いて
乗せられるな!
名前間違えるな!
わざわざ奴をスーパー魔法少女“身分を隠すため町娘に変装したお姫様。お祭りだって初体験。女剣士に憧れ中。でもその実体は?”にさせるな!
犬がきゃんきゃんわめく。本当にその名称だったのか。
……ふふふ。今回の作戦はレッドの本来の姿の再確認。それと生身での戦闘能力の確認。任務は果たした。レイヴンレッド、私を運んでくれ
なんかさあ、作戦ってレッドを捕まえるだったよね。
凪奈さあ、私精霊にならないと飛べないし、そしたらかぐや姫が目の真ん前に現れるよ。この空間だとさあ、月明かりを避けられないし。
だからさあ、捕まったのは私たちだよ
だったらお前も戦え!
一緒にやるぞ。……ともに花と散ろう
……生身が相手だとさあ、大怪我させちゃうけどさあ、仕方ないか。
ハウンドさあ、巻き込むから来ないでね
焼石が見えないなにかをスウェイして避ける。瞬時に間合いを詰めて、俺にも見切れぬ正拳突きを夢月の腹に――
逃さぬように足を踏み、顔面にもろに容赦なき正拳。前かがみになったところをアッパーカット。
焼石が跳躍して、地面に落ちるまで百裂のごとき拳を喰らわす。
彼女は夜闇の結界にぶつかり微動だにしない。
十一秒間の出来事。
ぱちーん!!!
焼石のデコピン。俺はソファごと吹っ飛ぶ。結界に衝突したあとも、まだ脳みそが頭蓋骨の中で揺れている。
それでも俺は気を失わない。
夢月を守る!
のんびりした声に続いてずどーん!
焼石のドロップキック。背骨がきしんだ。蘭さんのマンションで食べたカップ麺を嘔吐する。
お、おい。結界にひびが入ったぞ。しかも生きているし……。
まあいい。解除するからレイヴンレッドになって連行してくれ。ウサミンミンがいなくても、あれを使えば二人ぐらい運べるだろ?
女の子が俺と夢月を見おろし、ザマアみたいに笑う。部屋からでていく。
助けが欲しい。助けがないと……。うつ伏せたまま動けぬ俺は、今さら蘭さんに教わったことを思いだす。
“端末に魔法をかけてある。だからお前でも召喚できる。心に思うだけでいい”
“スマホができる人間ならば通信操作は簡単だ。
部外者に使われたら困るのは、緊急招集。画面を二回タップとシンプルだ。
絶対に押すなよ。前に夢月の教室に雪月花が集結して、クラス全員の記憶を消す羽目になった。
それとだな”
“この端末は敵の手に絶対に落ちない。奪われそうになると、これは消える”
俺の手からそれは消える。
壁の穴から町の喧騒が届く。夏の熱気も。
赤いハイヒール。漆黒のドレスから伸びるスマートな脚。
見逃してやってください。レジスタンスであったハイヒールへとお願いする。
格好いいな。彼女は原理主義に渡さぬから案ずるな。あれだけ痛めつければ、おとなしく語り合えるだろ。
奴らの欲望を満たすのはお前だけ――お前のエナジーだけだ
髪の毛をつかまれ顔を持ちあげられる。妖艶な笑みを浮かべるレイヴンレッドがいた。
ワタリガラスが無様な俺を観察する。臆病なほどに――。
その頬がうっすら赤らむ。
バシリスクでなくてバジリスク……。見るだけで死に追いやる伝説の怪物。
俺は狡猾な鴉を見つめる。こっちこそ魅惑されそうな瞳を。
精神エナジーが具現化した存在に報酬が効くはずない。だけどレイヴンレッドは見つめかえす。
彼女は思わずうなずく。
臆病で狡猾ゆえに、鴉は偽りの本質に囚われる。屍肉にたかるように、布理冥尊へと。俺の欺瞞の魅力へと。
べ、べつにレッドだからってわけじゃないからね。
お、お前は何かした。蘭と柚香が現れるかも。
……だからだからね。あんたなんかに頼まれたからじゃない!
レイヴンレッドが空との境に歩いていく。でも振りかえる。
動かない夢月を忌々しそうに見る。俺と抱き合っていた夢月を。
その手にレッドタイガーソードが現れる。
やめろ! ……あれはエナジーを回復しただけ。お前に散々斬られたから
レイヴンレッドがぎくりと俺を見る。悔恨の表情になる。
あ、あれは本気じゃなかったし。で、でも今度会ったら、もっともっと殺ってやるから! 覚えてな!
漆黒のドレスが町の空へと消える。
俺は夢月へと這っていく。
片目がパンダになっている。唇が腫れている。鼻が潰れている。それでも。
眠るお姫様の腫れた頬にキスをする。隣に横たわり抱き寄せる。
本当の肉体だって一緒に回復させよう。俺たちならきっとできる