相生桧は努めてぞんざいに尋ねる。海が見える白亜の建物の二階。彼女は拘束されていない。
ずいぶん良くなりました。……やはり年齢には勝てないようです。精神エナジーも老いていきます
解放的な広い部屋で、百夜目鬼がベッドから答える。化粧をしていないやつれた顔。でも赤みが戻ったかな……。
桧は彼女が上半身を起こすのを手伝う。朝食を乗せたベッドテーブルを前に置く。
買い出しです。
……あなたが歩けるようになったら私は帰ります。湖佳も連れていきます。だから早く元気になってください
桧は生身の魔女をにらむ。いつまでも沖縄になんかいられない。でも……この人は寝ているとちいさくて細い。
配下は一人だけになりました。聖戦を私の手で続けないとなりません。すこしだけゆっくりさせてください
そしてあと二回殺されるというのか。見捨てられないけど、警察なりに連絡したい。なのに、この人の目を見ると何もできない。
レイヴンレッドから連絡はないのですか?
それと、スープだけでも温かいうちに飲んでください
ありがとう。あなたの手作りスープならば冷めてもおいしい。……残念ですが、焼石はまだハウンドピンクの所在を見つけていません
千由奈を見つけてどうするの?
彼女はこの方に従わない。あなたの兄を信奉している
しわがれ声。湖佳が戻ってきた。中年男性に変げしたままで、閉じたドアに寄りかかる。
その姿だと話しづらいよ。
私はあの子と一緒にお兄ちゃんのもとに帰る。それだけったらそれだけ!
言い返したいけど沈黙してしまう。龍になったお兄ちゃんに百夜目鬼は殺されて、その際に兄の思念と重なり合い、私を見つけた。そして最大の悪であるテロリストを倒した私を、我が手に呼び寄せた。ぼろぼろぼろの状態で。
南国の冬近き午前。真実を語るのにふさわしいかもしれません。二人とも私の言葉を聞いてくれますか?
三つです。
まずひとつは、私はおろかでした。人々を救うために精霊の力が目覚めることを真理とした。そのために犠牲をいとわないことを原理とした。
……しかし人の原理は欲望。おのれはいつしか物欲におぼれました。裏切り者が付け入りました。あなたの兄や偽の月など、多くの人を巻き込んだ醜い争いを起こしてしまいました
太陽の光は強すぎます。おのれさえも焼き尽くす。それだけのことです。
……これから人々は暗く辛い時代を生きることになります。その暗黒を照らすのは月。人々を導くのは相生桧。それを輝かすために私は現れました。そして沈みます
この人の言葉は真理だ。私は月だと思う。おのれにも他人にも哀しみをもった青い月だと思う。でも……そこまで大層ではない。生徒会活動とか興味ないし、ボランティアもえり好みする程度の月だ。
ふたつめは真の悪のこと。
私たちを、さらに裏切り者が築いた組織を、手助けした人がいます。真理を科学で突き詰めようとした男です。千年に一度の天才は、私たちと彼らに違う技法を授けて試しました。
欲にまみれた人の外面内面に興味を示さず、精霊の力の観察だけを醒めた目で続けました。
桧さんがじきに目覚めたとき、戦いを終わらせたとき、その男と、その男が生みだしたものを消し去らねばなりません
それはマントや端末を捨てることを意味するのですか?
私たち選ばれた人間も、精霊になってはいけないのですか?
湖佳! 私たちが選ばれたはずないでしょ! 逆だよ!
みんな傷つき散々な目に遭わされている。選ばれた訳がない。……その根源は倒さないとならない。
それこそが真なる月の役割です。……その強い感情を保ちなさい。自分の力で真理に届きなさい
三つめの事実を教えます。
善と悪は表裏ではありません。善すなわち悪、悪すなわち善です。悪である私は裏切り者に罰を与えました。先頭で戦った敵にも罰を授けました。
月に憧れた惨めな鳳にもっとも重い罪を与えようとして、あなたの兄が被りました。
……それこそが導きでした。彼が現れなければ、布理冥尊は勝利で終わっていたからです。私はさらに富を得ていたからです。それに溺れられたからです
罰と言えないかもしれません。
真理が導くままに、あの男には、あの男が欲した姿を――求めてきた姿を授けました。
義理の妹への陰なる欲望。それを我が身にした彼は、その姿でいずれ永遠の闇へと去ります。
ほほほほほ……
さあ、二度目の死を私に授けなさい。あなたはさらに強くなれる
この女が言っていることは、なんとなく分かる。でも私は理解しようとしない。すれば三度目の死、生身の死さえも与えてしまうから。こいつはそれを待ちわびているから。だから。
すべてが台無しだ。お前を引き入れたことも意味なくなった
また禿げた親父が喚いている。
春木千由奈は殴られて腫れた頬をさすることもできずに、住吉という偽名の禿げを睨む。
未確認情報だが教えてやる。スカシバレッドは精霊のマントで変身して、婆さんの仕業で欲望に呑みこまれたようだ。
死ねば永遠の闇だが……あの男は怖くないらしい
父親と同じ年頃で、父親と同じように横柄な男が言う。見下す目線。コードネーム宗像。あっちにいたものは誰もが知っている。
元布理冥尊ナンバー2。ほかの幹部を誘い込み、大司祭長を裏切った男。あらたな布理冥尊を作りその頂点になろうとした男。レジスタンスだかテロリストだかの言い分だと、百夜目鬼を見限り戦いを挑んだ男。
智太さんの身に何があろうと、あの人は想定外をする。だから心配しない。だから春木千由奈の望みはひとつ。
兄を返せ。そしたら私から龍に頼んでやる。貴様らを食わないでくれと。腹を壊すぞと
住吉が酒が入ったグラスを春木に投げる。マントを奪われ後ろ手に縛られた彼女は避けようがない。ガラスの破片は刺さらない。濃いアルコールが顔を濡らすだけ。
その酒を舐めながら春木は住吉をにらむ。兄を返せとにらむ。
前線で戦う連中の偶像であり人質として、テロリストどもの一部を私たちの仲間にした
宗像が寄ってくる。父親と同じ冷めた目。人を蔑む目。
赤い馬鹿どもがひと晩で全員倒した。奴らは偶像でなくなった。その裏から支配する試みが瞬時に消えた
利権のために世界を水平にしようとする組織がある。赤い連中はその日本支部にも喧嘩を売った。
……恐るべき組織が敵になった。櫛引も逃げたみたいだ。魔女の布理冥尊と我々の布理冥尊。どちらも終わりだ
破片を春木の目の前に持ってくる。彼女はそれでも顔を背けない。
だが可能性はある。賢い顔をしていても中学生では分からないだろうがな
兄は返さない。兄であった廃人の前で、お前は大人にいたぶられ、化け物の餌になる。その後に廃人も楽にしてやる。
嫌ならば協力しろ