第2話 魔女の山 Ⅲ
文字数 2,469文字
夜になり、老いた魔女がヘルヴィガの庵を訊ねた。
「とうとうこの日が来たか……まだ早いような気もするが、仕方がないのう……」
老魔女は、昼間ヴァルトハイデが飲んでいたものと同じハーブティーを馳走になっていた。
山の気温は日が暮れると急激に下がる。湯気の上がる薬湯が体内を温めた。
「昼間、下界の魔女から帝国の都が襲撃されたと報せが届きました。いずれこうなることは予想されていたことです。わたしたちはそのためにできることを行ってきました。ヴァルトハイデも覚悟しています。時宜が重なったのです」
ヘルヴィガは窓から夜空を見上げながら答えた。奇しくも、星の配置が七十年前と酷似していた。
老いた魔女は横目にヘルヴィガを見やりながら、その胸にわだかまるものを推し量った。
「お主は、まだ自分を責めておのか? あれは全員で決めたことじゃ。罪があるとすれば、わしら全員が同じ罰を受けねばならぬ。自分一人で背負いこもうとするな」
「……分かっています。ただヴァルトハイデには、わたしと同じ過ちを繰り返してほしくないのです」
「ヴァルトハイデは強い子じゃ。美しくもあり、賢くもある。お主がそうでないといっておるわけではないがな。心配はいらぬ。わしらは、きちんとあの娘を育て上げた。少なくとも、その分の罰は免じられるはずじゃ」
「はい、ヘーダ様……」
「後は本人の意思に託すしかあるまい。他に、代わりになる魔女もおらぬのじゃから」
老いた魔女は、冷たくなった心を温めるようにハーブティーをすすった。
試練の時を告げるような星が、ハルツの夜空に流れた。
ヴァルトハイデは精神を集中させるため、ほら穴にこもって瞑想を続けた。
ハルツへきてからの三年間で、彼女は多くの魔女から様々な術や技を学び、知識や肉体面において飛躍的な成長を遂げた。しかし、精神面においては本人も自覚する、克服しなければならない不安要素を残していた。
三年前のことである。ヴァルトハイデの心臓は停止し、すべての生命活動が終了した。
死んだはずの少女が再び目を覚ましたのは、遺体を焼き清めるための炎の中でだった。ヴァルトハイデは、その肉体に宿ったもう一つの魔女の力で復活したのである。
甦った娘は魔女の本能のまま各地をさ迷い、多くの罪を重ねた。
ヘルヴィガたちに保護され、ハルツへ連れてこられるまでの間、ヴァルトハイデには生き返ったという実感さえなく、まるで他人の記憶の中を漂っているような曖昧とした意識に支配されていた。
今でこそ三年間の修行によって、もう一つの魔女の力を抑える術 を身につけたが、再びその身が窮地に陥った時、あるいは精神が肉体を支え切れなくなった時、自分自身の内側に眠りこませた自分ではない別の誰かが目覚めるのではないかと、怖れていた。
ヴァルトハイデはヘルヴィガにいわれたとおり、朝は露を飲み、夜は蜂蜜を嘗め、生命活動を維持するのに必要最小限の水と食事だけで過ごした。
あえて飢餓状態を作り出し、自身を命の危地へと追いやった。
その過程で再び本能が理性のたがを外れ、もう一人の自分が暴れ出すようなら、この三年間は無駄だったことになる。
ヴァルトハイデにとって、ハルツで過ごした日々は自責と贖罪の日々でもあった。
自分の意志でしたことではないとはいえ、罪を負った者がのうのうと生きていていのかと、常に思い悩んでいた。そんな思いを和らげてくれたのが、ヘルヴィガだった。
再びこの国に闇が迫ることを、ヘルヴィガは数年も前から予期していた。もう一つの魔女の力に狂ったヴァルトハイデを発見できたのも、下界の監視と警戒を怠らずにいたからである。
ヘルヴィガはヴァルトハイデに、いつか現れる魔女を討つための魔女となるよう命じた。その身に宿った本人でさえ制御しきれないもう一つの力は、人々を守るために使うためのものだと諭したのである。
たったそれだけの言葉で、ヴァルトハイデの悩みや罪の意識が消え去ったわけではない。しかし、恩人であるヘルヴィガから与えられた命題は、少なくとも使命を果たすまでは死ぬことのできない、生き続けなければならない理由となった。
ヴァルトハイデは、自分を救ってくれたハルツとヘルヴィガに心から感謝していた。この三年間を無駄にしないためにも、若き魔女はたった一人、瞑想を続けながら決して負けることのできない戦いに臨んだ。
ほら穴にこもって数日後、ヴァルトハイデの頬はこけ、目は落ちくぼみ、その身体はすっかり痩せ衰えていた。
瞑想を続けている間、友人であるゲーパが様子を見に来たが、とても声をかけられる状態ではなかった。そっと入口から中を覗き、生きていることを確認するだけだった。
翌日にヴァルトハイデの力と精神が試される魔女の夜 の祭りが迫ったその日、ほら穴の前に飢えたヒグマが現れた。
冬眠から目覚めて間もないヒグマは空腹を満たすため、旺盛な食欲で見境なく獲物に喰らいつく。
瞑想中のヴァルトハイデは筋肉が萎え、自力で立ち上がることすら困難な状態だった。ヒグマにとっては格好の餌食に思えた。
それでもヴァルトハイデは無心だった。あるいは、もう一人の自分は危機を察知していたかもしれない。しかし、巨大な顎を裂いて迫り寄るケダモノを前にしても、無防備にその身をさらし続けた。
ヒグマはヴァルトハイデの頭部に牙を突き立てんとよだれを垂らした。だが、微動だにしない獲物に狩猟本能を失ったのか、すんでのところでそっぽを向いた。
ヒグマは背中を丸め、しずしずとほら穴を去る。その途中、入口近くで立ち止まると、後ろを振り返った。
ヴァルトハイデは何事もなかったように瞑想を続けている。それを確かめると、ヒグマは人の姿に変わった。ヴァルトハイデを試すため、魔女が化けていたのだ。
果たして、ヴァルトハイデは魔女が化けていることを見抜いていたのだろうか。それとも、強い精神力がもう一人の自分を抑え込んだのだろうか。その答えはすぐには出ない。
ヒグマが去った後も、ヴァルトハイデは静かに瞑想を続けた。
「とうとうこの日が来たか……まだ早いような気もするが、仕方がないのう……」
老魔女は、昼間ヴァルトハイデが飲んでいたものと同じハーブティーを馳走になっていた。
山の気温は日が暮れると急激に下がる。湯気の上がる薬湯が体内を温めた。
「昼間、下界の魔女から帝国の都が襲撃されたと報せが届きました。いずれこうなることは予想されていたことです。わたしたちはそのためにできることを行ってきました。ヴァルトハイデも覚悟しています。時宜が重なったのです」
ヘルヴィガは窓から夜空を見上げながら答えた。奇しくも、星の配置が七十年前と酷似していた。
老いた魔女は横目にヘルヴィガを見やりながら、その胸にわだかまるものを推し量った。
「お主は、まだ自分を責めておのか? あれは全員で決めたことじゃ。罪があるとすれば、わしら全員が同じ罰を受けねばならぬ。自分一人で背負いこもうとするな」
「……分かっています。ただヴァルトハイデには、わたしと同じ過ちを繰り返してほしくないのです」
「ヴァルトハイデは強い子じゃ。美しくもあり、賢くもある。お主がそうでないといっておるわけではないがな。心配はいらぬ。わしらは、きちんとあの娘を育て上げた。少なくとも、その分の罰は免じられるはずじゃ」
「はい、ヘーダ様……」
「後は本人の意思に託すしかあるまい。他に、代わりになる魔女もおらぬのじゃから」
老いた魔女は、冷たくなった心を温めるようにハーブティーをすすった。
試練の時を告げるような星が、ハルツの夜空に流れた。
ヴァルトハイデは精神を集中させるため、ほら穴にこもって瞑想を続けた。
ハルツへきてからの三年間で、彼女は多くの魔女から様々な術や技を学び、知識や肉体面において飛躍的な成長を遂げた。しかし、精神面においては本人も自覚する、克服しなければならない不安要素を残していた。
三年前のことである。ヴァルトハイデの心臓は停止し、すべての生命活動が終了した。
死んだはずの少女が再び目を覚ましたのは、遺体を焼き清めるための炎の中でだった。ヴァルトハイデは、その肉体に宿ったもう一つの魔女の力で復活したのである。
甦った娘は魔女の本能のまま各地をさ迷い、多くの罪を重ねた。
ヘルヴィガたちに保護され、ハルツへ連れてこられるまでの間、ヴァルトハイデには生き返ったという実感さえなく、まるで他人の記憶の中を漂っているような曖昧とした意識に支配されていた。
今でこそ三年間の修行によって、もう一つの魔女の力を抑える
ヴァルトハイデはヘルヴィガにいわれたとおり、朝は露を飲み、夜は蜂蜜を嘗め、生命活動を維持するのに必要最小限の水と食事だけで過ごした。
あえて飢餓状態を作り出し、自身を命の危地へと追いやった。
その過程で再び本能が理性のたがを外れ、もう一人の自分が暴れ出すようなら、この三年間は無駄だったことになる。
ヴァルトハイデにとって、ハルツで過ごした日々は自責と贖罪の日々でもあった。
自分の意志でしたことではないとはいえ、罪を負った者がのうのうと生きていていのかと、常に思い悩んでいた。そんな思いを和らげてくれたのが、ヘルヴィガだった。
再びこの国に闇が迫ることを、ヘルヴィガは数年も前から予期していた。もう一つの魔女の力に狂ったヴァルトハイデを発見できたのも、下界の監視と警戒を怠らずにいたからである。
ヘルヴィガはヴァルトハイデに、いつか現れる魔女を討つための魔女となるよう命じた。その身に宿った本人でさえ制御しきれないもう一つの力は、人々を守るために使うためのものだと諭したのである。
たったそれだけの言葉で、ヴァルトハイデの悩みや罪の意識が消え去ったわけではない。しかし、恩人であるヘルヴィガから与えられた命題は、少なくとも使命を果たすまでは死ぬことのできない、生き続けなければならない理由となった。
ヴァルトハイデは、自分を救ってくれたハルツとヘルヴィガに心から感謝していた。この三年間を無駄にしないためにも、若き魔女はたった一人、瞑想を続けながら決して負けることのできない戦いに臨んだ。
ほら穴にこもって数日後、ヴァルトハイデの頬はこけ、目は落ちくぼみ、その身体はすっかり痩せ衰えていた。
瞑想を続けている間、友人であるゲーパが様子を見に来たが、とても声をかけられる状態ではなかった。そっと入口から中を覗き、生きていることを確認するだけだった。
翌日にヴァルトハイデの力と精神が試される
冬眠から目覚めて間もないヒグマは空腹を満たすため、旺盛な食欲で見境なく獲物に喰らいつく。
瞑想中のヴァルトハイデは筋肉が萎え、自力で立ち上がることすら困難な状態だった。ヒグマにとっては格好の餌食に思えた。
それでもヴァルトハイデは無心だった。あるいは、もう一人の自分は危機を察知していたかもしれない。しかし、巨大な顎を裂いて迫り寄るケダモノを前にしても、無防備にその身をさらし続けた。
ヒグマはヴァルトハイデの頭部に牙を突き立てんとよだれを垂らした。だが、微動だにしない獲物に狩猟本能を失ったのか、すんでのところでそっぽを向いた。
ヒグマは背中を丸め、しずしずとほら穴を去る。その途中、入口近くで立ち止まると、後ろを振り返った。
ヴァルトハイデは何事もなかったように瞑想を続けている。それを確かめると、ヒグマは人の姿に変わった。ヴァルトハイデを試すため、魔女が化けていたのだ。
果たして、ヴァルトハイデは魔女が化けていることを見抜いていたのだろうか。それとも、強い精神力がもう一人の自分を抑え込んだのだろうか。その答えはすぐには出ない。
ヒグマが去った後も、ヴァルトハイデは静かに瞑想を続けた。