第24話 一本の糸 Ⅲ
文字数 4,064文字
日暮れが近づくころ、斥候隊は沢にたどり着いた。
記録によれば、レムベルト皇太子は谷間の細流をさかのぼり、その先にある滝を越えたとされている。
それが伝説に語りつがれる水の流れであれば、ミッターゴルディング城までの手がかりとなるはずだった。
先を急ぎたい気持ちもあったが、間もなく夜が訪れる。暗闇の中を進むのは危険と判断したヘンデリクスは立ち止まることにした。
「今夜は、ここで野営をはる。食事の準備をしろ。しかし、火は使うな。順番に交代で見張りに立て!」
騎士たちに指示する。村を出てから休憩もなく進んできた斥候隊にとって、ようやく一息つける瞬間だった。
清冽な谷川の水で喉を潤し、携帯の食料にかぶりつく。今のところ魔女の気配はない。しかし、気を抜くことはできない。どこかで斥候隊を監視しながら、暗くなるのを待っている可能性が考えられた。
食事を終えたオトヘルムがヘンデリクスに申し出た。
「隊長、もう少し先まで様子を見てきてもよろしいでしょうか?」
レムベルト皇太子が越えたとされる滝を探しに行こうというのだ。
単独での行動が危険であることは斥候隊の誰もが承知していた。が、兄の仇を討ちたいと考えるオトヘルムは焦っていた。
本来なら許可すべきではなかっただろうが、ヘンデリクスも先の様子が気になっていた。
「……よかろう。ただし無理をするな。じきに暗くなる。それまでに戻って来い」
「了解しました!」
オトヘルムは隊から離れて別行動をとった。
ヘンデリクスが予想したとおり、あたりはあっという間に暗闇に包まれた。
森が息をひそめる中、水の流れる音だけが聞こえる。
「グリミングの弟は、どこまでいったんだ?」
ローデガング・フォン・バイルハックが呟いた。暗くなる前に戻って来いという命令は守られなかった。
「まさか、なにかあったのではないでしょうか……」
ナントヴィヒ・フォン・ブレシュが心配する。自分が様子を見てきましょうかと、ヘンデリクスに進言しかけた時だった。茂みの中で、何かが動く音がした。
いっせいに騎士たちが気配のほうを振りかえる。そこにいたのは立派な角を生やした牡鹿だった。
「なんだ、脅かすなよ……」
魔女の襲撃かと思ったバイルハックは胸を撫ぜ下ろした。
「それにしても遅い。ブレシュ、ディナイガー、お前たちで見てこい!」
ヘンデリクスが命じる。が、二人が返事をするよりも先に、バイルハックが小さな異変に気づいて声を上げた。
「お待ちください、隊長!!」
ヘンデリクスの首筋に、一本の糸が這うのが見えた。振り払う間もなく、それが斥候隊隊長の首を締める。
「うっ!!」
ヘンデリクスは首をくくられ宙に釣り上げられた。糸を解こうともがくが、手足をばたつかせるほどきつく首筋に喰い込んでいく。
「隊長!!」
騎士たちは戸惑いの声をあげ、ヘンデリクスは失禁して意識を失くす。
「なぜ、わざわざこの森へ近づくのか。おとなしくしていれば、誰も傷つかずにすむものを……」
どこからか声が響いた。警戒して騎士たちが周囲を見渡すと、暗闇の中から女が姿を現した。
「貴様、魔女か!!」
女に向い、怒号とともにディナイガーが問いかけた。
「その通り、わたしは人の命を巻き取るために遣わされた糸車の魔女。ルームの騎士よ、わたしの紡いだ糸にからめとられ、ここで果てるがよい」
「おのれ、隊長を放せ!!」
バイルハックが剣を抜く。ブレシュとディナイガーもそれに続いた。
「逃げるならば追わぬものを……人間ごときに、わたしの糸が断てると思ったか!」
魔力で紡いだ糸が騎士たちを襲った。
魔女と騎士が干戈を交えるころ、オトヘルムの耳に流れ落ちる水の音が聞こえた。
「……ここだ、間違いない。レムベルト皇太子が通ったのは、この沢であっていたんだ!」
オトヘルムの目の前に、そそり立つ断崖がたちふさがった。
木々の隙間から差し込む月の光が、白糸のように流れ落ちる飛瀑を浮かび上がらせる。
村人の案内で森へ入り、教えられた方角へ進んで沢にたどり着いた。さらにその上流で滝を発見した。オトヘルムは七十年前にもレムベルト皇太子が同じ道を歩いたことを確信する。すぐに戻って仲間に報告しなければと、来た道を急いで引き返した。
魔女と騎士の戦いは、一方的で凄惨なものとなっていた。
「バイルハック!!」
ブレシュが叫ぶ。隊長に続いて隊員も首をくくられ、絶命する。その間にも、もう一人の隊員であるディナイガーの足首が銀糸に捕まった。
ディナイガーは逆さまに釣り上げられる。剣を振るって断ち切ろうとするが、魔女の紡いだ糸は鋼鉄のように硬く刃を受け付けない。
単身ブレシュが魔女に切りかかるが、四方から延ばされた魔力を帯びた糸に身体を巻かれ、身動き一つ取れなくなった。
「しょせん人間などこの程度のもの。ルームの騎士が二度とこの森に近づけぬよう、たっぷりと恐怖を植え付けてやろう!」
アスヴィーネは縒り合わせた糸を錐の先端のように尖らせると、動けなくなったブレシュの腹に突き刺した。
「うぐっ!!」
口から血と悲鳴が漏れる。さらに腕や腿や背中から串刺しにすると、必要以上の恐怖と苦痛を味わわせた。
「ブレシュ、いま助けに行く! こらえろ、ブレシュ!!」
ディナイガーは何度も糸に剣を打ち付ける。刃はこぼれるが、糸のほうも徐々に繊維が断たれて細くなっていく。やがて重みに耐えられなくなると、ディナイガーは逆さまに落下して地面にたたきつけられた。
魔女の拘束からは解放されたが右肩は骨折し、剣を振るうことはできなくなった。
最後の一人にとどめを刺すべく、アスヴィーネがディナイガーに歩み寄ろうとしたとき、仲間を呼ぶ声が響いた。
「ヘンデリクス隊長! ブレシュ! バイルハック! ディナイガー! これはいったい……!!」
宙に吊るされたまま絶命したヘンデリクス隊長の遺体を発見し、オトヘルムが叫んでいた。
「……グリミングの弟か! 魔女だ、気をつけろ!」
声の方向に向かってディナイガーが答える。
「ディナイガー、生きているのか! お前だけか!?」
オトヘルムは仲間に駆け寄ると、無事を確かめた。
「無事というわけではない……情けないことだ……」
「しっかりしろ、右肩をやられているのか?」
「大丈夫だ、まだ戦える。これしきの傷、どうということはない……」
「無理をするな。それよりも、この沢の先で滝を見つけた。レムベルト皇太子が歩いた道だ。魔女はオレが引き受ける。ディナイガーは帝都へ戻って復命しろ!」
「お前をおいて逃げろというのか!? バカなことを! オレも最後まで戦う!」
「斥候隊の任務を勘違いするな。オレたちの目的は魔女と戦うことではない。生きて帝都へ帰り、知りえた情報を報告することだ。隊長たちを無駄死にさせるな!」
「オトヘルム、貴様……」
「行け、ノーター! オレは死にはしない。必ず生きて帰る。そう約束した女性 がいる……」
オトヘルムの脳裏に、一人の魔女が浮かんだ。
ディナイガーにとっても、苦渋の選択だった。しかし、今はオトヘルムのいうとおりにするしかなかった。
「……すまん。あとのことはお前に任せる。オレは、這ってでも帝都へ帰り着いてみせる」
「頼んだぞ……」
オトヘルムは血路を切り開くため、身代わりとなって魔女の前に立ちはだかった。
「一人足りないと思ったが、逃げたのではなかったか。しかし、どちらでも同じこと。人間ごときに、わたしの糸から逃れることは出来ない」
アスヴィーネは糸を延ばし、オトヘルムを串刺しにしようとした。
一閃、オトヘルムは剣を振るって糸の槍を弾き返す。
「いまだ、行け!!」
オトヘルムが叫ぶとディナイガーは暗闇の中へ走り出した。
アスヴィーネは冷たい視線を向けたが、追いかけようとはしない。オトヘルムに向き合い、感心する。
「大したものだ、わたしの糸を弾き返すとは……」
「悪いが、これはただの剣ではない。七十年前、レムベルト皇太子の側近を務めた我が祖父から受け継いだ伝家の宝刀。魔女を討つ、勇者の剣だ!」
切っ先を向け、威嚇するように見せつける。ディナイガーのため、虚勢を張ってでも時間を稼ごうとした。
「おもしろい。その剣が本物かどうか、わたしが試してやろう」
アスヴィーネは四方に這わせた糸を操り、前後左右からオトヘルムを襲った。
オトヘルムは奮戦した。仲間を逃がすため、兄の仇を討つため、ゲーパと交わした約束を守るために。しかし、切れども切れども魔女の糸が尽きることはない。
そのうちに、手足に糸が絡みつき、徐々に身体の自由が奪われていく。さらに、肌に喰い込んだ糸は皮膚を切り裂いて出血を強いる。
やがて全身を血で赤く染め、抵抗もできなくなるほど糸を巻きつけられると、意識さえも遠ざかり始めた。
「すまない兄貴……すまないゲーパ……どうやらオレは、ここまでのようだ…………」
不甲斐ない自分を詰って、約束を守れなかった者たちへ謝罪する。
兄の形見である剣を握ったまま、オトヘルムは瞳を閉じた。
糸車の魔女は、虚しさを抱えて呟いた。
「ルームの騎士といえど、所詮はこの程度か……これではリントガルトに敵うはずもない。レムベルトのような英雄は、二度と現れることはないのか……」
オトヘルムに歩み寄り、死んでいるのを確かめようとした。
そのときである。絶息したかに思われた騎士の両目がカッと見開かれた。
不意を突いて、魔女の腹部へ伝家の宝刀を突き立てる。
「生憎、オレは往生際が悪いんだ!!」
「おのれ、ルームの騎士め……!」
アスヴィーネはよろよろと後ずさり、腹部を押さえながらうずくまった。
「こんなところで、わたしは死ねぬ。エルラ……」
今度はアスヴィーネが瞳を閉じた。
「見てくれたか兄貴、魔女を一人成敗した……ルームの騎士をなめるなよ……!」
魔女が動けなくなるのを見届けると糸を断ち切り、ディナイガーの後を追うようにオトヘルムも歩き始めた。しかし、その足取りに力はなく、やがて森の中に倒れた。
記録によれば、レムベルト皇太子は谷間の細流をさかのぼり、その先にある滝を越えたとされている。
それが伝説に語りつがれる水の流れであれば、ミッターゴルディング城までの手がかりとなるはずだった。
先を急ぎたい気持ちもあったが、間もなく夜が訪れる。暗闇の中を進むのは危険と判断したヘンデリクスは立ち止まることにした。
「今夜は、ここで野営をはる。食事の準備をしろ。しかし、火は使うな。順番に交代で見張りに立て!」
騎士たちに指示する。村を出てから休憩もなく進んできた斥候隊にとって、ようやく一息つける瞬間だった。
清冽な谷川の水で喉を潤し、携帯の食料にかぶりつく。今のところ魔女の気配はない。しかし、気を抜くことはできない。どこかで斥候隊を監視しながら、暗くなるのを待っている可能性が考えられた。
食事を終えたオトヘルムがヘンデリクスに申し出た。
「隊長、もう少し先まで様子を見てきてもよろしいでしょうか?」
レムベルト皇太子が越えたとされる滝を探しに行こうというのだ。
単独での行動が危険であることは斥候隊の誰もが承知していた。が、兄の仇を討ちたいと考えるオトヘルムは焦っていた。
本来なら許可すべきではなかっただろうが、ヘンデリクスも先の様子が気になっていた。
「……よかろう。ただし無理をするな。じきに暗くなる。それまでに戻って来い」
「了解しました!」
オトヘルムは隊から離れて別行動をとった。
ヘンデリクスが予想したとおり、あたりはあっという間に暗闇に包まれた。
森が息をひそめる中、水の流れる音だけが聞こえる。
「グリミングの弟は、どこまでいったんだ?」
ローデガング・フォン・バイルハックが呟いた。暗くなる前に戻って来いという命令は守られなかった。
「まさか、なにかあったのではないでしょうか……」
ナントヴィヒ・フォン・ブレシュが心配する。自分が様子を見てきましょうかと、ヘンデリクスに進言しかけた時だった。茂みの中で、何かが動く音がした。
いっせいに騎士たちが気配のほうを振りかえる。そこにいたのは立派な角を生やした牡鹿だった。
「なんだ、脅かすなよ……」
魔女の襲撃かと思ったバイルハックは胸を撫ぜ下ろした。
「それにしても遅い。ブレシュ、ディナイガー、お前たちで見てこい!」
ヘンデリクスが命じる。が、二人が返事をするよりも先に、バイルハックが小さな異変に気づいて声を上げた。
「お待ちください、隊長!!」
ヘンデリクスの首筋に、一本の糸が這うのが見えた。振り払う間もなく、それが斥候隊隊長の首を締める。
「うっ!!」
ヘンデリクスは首をくくられ宙に釣り上げられた。糸を解こうともがくが、手足をばたつかせるほどきつく首筋に喰い込んでいく。
「隊長!!」
騎士たちは戸惑いの声をあげ、ヘンデリクスは失禁して意識を失くす。
「なぜ、わざわざこの森へ近づくのか。おとなしくしていれば、誰も傷つかずにすむものを……」
どこからか声が響いた。警戒して騎士たちが周囲を見渡すと、暗闇の中から女が姿を現した。
「貴様、魔女か!!」
女に向い、怒号とともにディナイガーが問いかけた。
「その通り、わたしは人の命を巻き取るために遣わされた糸車の魔女。ルームの騎士よ、わたしの紡いだ糸にからめとられ、ここで果てるがよい」
「おのれ、隊長を放せ!!」
バイルハックが剣を抜く。ブレシュとディナイガーもそれに続いた。
「逃げるならば追わぬものを……人間ごときに、わたしの糸が断てると思ったか!」
魔力で紡いだ糸が騎士たちを襲った。
魔女と騎士が干戈を交えるころ、オトヘルムの耳に流れ落ちる水の音が聞こえた。
「……ここだ、間違いない。レムベルト皇太子が通ったのは、この沢であっていたんだ!」
オトヘルムの目の前に、そそり立つ断崖がたちふさがった。
木々の隙間から差し込む月の光が、白糸のように流れ落ちる飛瀑を浮かび上がらせる。
村人の案内で森へ入り、教えられた方角へ進んで沢にたどり着いた。さらにその上流で滝を発見した。オトヘルムは七十年前にもレムベルト皇太子が同じ道を歩いたことを確信する。すぐに戻って仲間に報告しなければと、来た道を急いで引き返した。
魔女と騎士の戦いは、一方的で凄惨なものとなっていた。
「バイルハック!!」
ブレシュが叫ぶ。隊長に続いて隊員も首をくくられ、絶命する。その間にも、もう一人の隊員であるディナイガーの足首が銀糸に捕まった。
ディナイガーは逆さまに釣り上げられる。剣を振るって断ち切ろうとするが、魔女の紡いだ糸は鋼鉄のように硬く刃を受け付けない。
単身ブレシュが魔女に切りかかるが、四方から延ばされた魔力を帯びた糸に身体を巻かれ、身動き一つ取れなくなった。
「しょせん人間などこの程度のもの。ルームの騎士が二度とこの森に近づけぬよう、たっぷりと恐怖を植え付けてやろう!」
アスヴィーネは縒り合わせた糸を錐の先端のように尖らせると、動けなくなったブレシュの腹に突き刺した。
「うぐっ!!」
口から血と悲鳴が漏れる。さらに腕や腿や背中から串刺しにすると、必要以上の恐怖と苦痛を味わわせた。
「ブレシュ、いま助けに行く! こらえろ、ブレシュ!!」
ディナイガーは何度も糸に剣を打ち付ける。刃はこぼれるが、糸のほうも徐々に繊維が断たれて細くなっていく。やがて重みに耐えられなくなると、ディナイガーは逆さまに落下して地面にたたきつけられた。
魔女の拘束からは解放されたが右肩は骨折し、剣を振るうことはできなくなった。
最後の一人にとどめを刺すべく、アスヴィーネがディナイガーに歩み寄ろうとしたとき、仲間を呼ぶ声が響いた。
「ヘンデリクス隊長! ブレシュ! バイルハック! ディナイガー! これはいったい……!!」
宙に吊るされたまま絶命したヘンデリクス隊長の遺体を発見し、オトヘルムが叫んでいた。
「……グリミングの弟か! 魔女だ、気をつけろ!」
声の方向に向かってディナイガーが答える。
「ディナイガー、生きているのか! お前だけか!?」
オトヘルムは仲間に駆け寄ると、無事を確かめた。
「無事というわけではない……情けないことだ……」
「しっかりしろ、右肩をやられているのか?」
「大丈夫だ、まだ戦える。これしきの傷、どうということはない……」
「無理をするな。それよりも、この沢の先で滝を見つけた。レムベルト皇太子が歩いた道だ。魔女はオレが引き受ける。ディナイガーは帝都へ戻って復命しろ!」
「お前をおいて逃げろというのか!? バカなことを! オレも最後まで戦う!」
「斥候隊の任務を勘違いするな。オレたちの目的は魔女と戦うことではない。生きて帝都へ帰り、知りえた情報を報告することだ。隊長たちを無駄死にさせるな!」
「オトヘルム、貴様……」
「行け、ノーター! オレは死にはしない。必ず生きて帰る。そう約束した
オトヘルムの脳裏に、一人の魔女が浮かんだ。
ディナイガーにとっても、苦渋の選択だった。しかし、今はオトヘルムのいうとおりにするしかなかった。
「……すまん。あとのことはお前に任せる。オレは、這ってでも帝都へ帰り着いてみせる」
「頼んだぞ……」
オトヘルムは血路を切り開くため、身代わりとなって魔女の前に立ちはだかった。
「一人足りないと思ったが、逃げたのではなかったか。しかし、どちらでも同じこと。人間ごときに、わたしの糸から逃れることは出来ない」
アスヴィーネは糸を延ばし、オトヘルムを串刺しにしようとした。
一閃、オトヘルムは剣を振るって糸の槍を弾き返す。
「いまだ、行け!!」
オトヘルムが叫ぶとディナイガーは暗闇の中へ走り出した。
アスヴィーネは冷たい視線を向けたが、追いかけようとはしない。オトヘルムに向き合い、感心する。
「大したものだ、わたしの糸を弾き返すとは……」
「悪いが、これはただの剣ではない。七十年前、レムベルト皇太子の側近を務めた我が祖父から受け継いだ伝家の宝刀。魔女を討つ、勇者の剣だ!」
切っ先を向け、威嚇するように見せつける。ディナイガーのため、虚勢を張ってでも時間を稼ごうとした。
「おもしろい。その剣が本物かどうか、わたしが試してやろう」
アスヴィーネは四方に這わせた糸を操り、前後左右からオトヘルムを襲った。
オトヘルムは奮戦した。仲間を逃がすため、兄の仇を討つため、ゲーパと交わした約束を守るために。しかし、切れども切れども魔女の糸が尽きることはない。
そのうちに、手足に糸が絡みつき、徐々に身体の自由が奪われていく。さらに、肌に喰い込んだ糸は皮膚を切り裂いて出血を強いる。
やがて全身を血で赤く染め、抵抗もできなくなるほど糸を巻きつけられると、意識さえも遠ざかり始めた。
「すまない兄貴……すまないゲーパ……どうやらオレは、ここまでのようだ…………」
不甲斐ない自分を詰って、約束を守れなかった者たちへ謝罪する。
兄の形見である剣を握ったまま、オトヘルムは瞳を閉じた。
糸車の魔女は、虚しさを抱えて呟いた。
「ルームの騎士といえど、所詮はこの程度か……これではリントガルトに敵うはずもない。レムベルトのような英雄は、二度と現れることはないのか……」
オトヘルムに歩み寄り、死んでいるのを確かめようとした。
そのときである。絶息したかに思われた騎士の両目がカッと見開かれた。
不意を突いて、魔女の腹部へ伝家の宝刀を突き立てる。
「生憎、オレは往生際が悪いんだ!!」
「おのれ、ルームの騎士め……!」
アスヴィーネはよろよろと後ずさり、腹部を押さえながらうずくまった。
「こんなところで、わたしは死ねぬ。エルラ……」
今度はアスヴィーネが瞳を閉じた。
「見てくれたか兄貴、魔女を一人成敗した……ルームの騎士をなめるなよ……!」
魔女が動けなくなるのを見届けると糸を断ち切り、ディナイガーの後を追うようにオトヘルムも歩き始めた。しかし、その足取りに力はなく、やがて森の中に倒れた。