第34話 敢えてその名を Ⅰ

文字数 1,872文字

 ライヒェンバッハ公ルペルトゥス・ゲルラハが始めた魔女狩りは、レギスヴィンダに不平を持つ諸侯に支持され、瞬く間に帝国全土へ広まった。
 各地で男、女、子供、老人の区別なく、わずかでも疑いのある者は捕らえられ、まともな裁判も受けられないまま収容所や処刑場へ送られる。
 人々はこれらの行為に恐怖すると、互いに監視し合い、密告し、疑心暗鬼に陥った。
 もはや皇帝の権威も国家の秩序も失われ、恐怖と混乱だけが人心を支配した。


 穏やかな陽射しが降り注ぐ街道の上、二人の女が別れを惜しんでいる。
「本当にいってしまうの、リカルダ。何もあなたが、そんな役を引き受けなくても……」
「仕方のないことだ、ルートヴィナ。わたしも魔女のはしくれ、仲間を見殺しにはできない」
 一人は羊飼いの娘。人間だ。街道の周囲には牧場(まきば)が広がっている。
 もう一人は魔女。荷物を詰め込んだ袋を足下に置いている。
「世話になった。本当に感謝している。わたしが魔女と知っていながら、それでもお前たち家族は何もいわずに受け入れてくれた。ここで過ごした時間は、わたしにとって掛け替えのないものになった。この恩は一生忘れることはない」
「皇帝陛下は人と魔女が一緒に暮らせる国を目指してたはずなのに……どうして、こんなことになってしまったの……」
「これが人と魔女の運命だ。初めから分りあえるはずがなかった」
「でも、あたしたちはうまくやれてたわよね……?」
「悲しまないでくれ。わたしは皇帝を恨んではいない。ほんの少しでも夢をみられて幸せだった」
 娘は魔女の手を握り、惜別の涙を浮かべる。
「ここにはまだ魔女狩りは来ていない。しかし、それも時間の問題だ。気をつけろ。わたしを匿っていたことで、お前たちにも嫌疑が及ぶかもしれない」
「……分かってるわ。あたしは大丈夫よ。あなたのほうこそ、無茶はしないで」
「約束はできない。それでもすべてが終わったら、もしも許されるなら、ここでまた会おう」
「待ってるわ、リカルダ……」
「さよならだ、ルートヴィナ――」
 魔女はまとめた荷物を担ぎ上げ、歩き出す。
 娘は魔女の背中を見送る。たぶんもう、生きて会うことはないだろうと心で別れを告げた。


 エスペンラウプの暗い研究室。
 ルオトリープがイスに腰かけている。そこへイドゥベルガが現れ、行儀悪くテーブルの上に座った。
「世の中はまるで地獄絵図ね。いい気味だわ」
「これが人の本性さ。自分が疑われないために、他人を密告する。そうやって生き伸びて、自分の行為に嫌悪して、また他人を犠牲にする。永遠に終わらない、呪いと憎しみの連鎖さ」
「あなたたち人間の方が、よほど醜い生き物だわ。オッティリアが人間を皆殺しにしようとした理由が分かるわね」
「種をまいた張本人がよくいうよ」
「あなたの方こそ、黙って見ていたくせに」
「わたしは、人と魔女の争いに興味はないからね。それにしても、まさかこの混乱の首謀者が、こんなところに隠れているとはさすがのライヒェンバッハ公でも気付かないものだね」
「あの男は今頃、まったく見当はずれのところを捜しているのでしょう。滑稽だわ。自分がいいように利用されているとも知らないで」
「公は今、人生の絶頂期にあるからね。行為自体を楽しんでいるのさ」
「以前、いっていたわね。ライヒェンバッハ公には命をかけても叶えたい望みがあるって、それが今なの?」
「ライヒェンバッハ公の望みは戦って死ぬことさ。それを邪魔することは、誰にも出来ない」
「戦って死ぬ……せっかくあなたが病気を治してあげたのに?」
「公は皆が戦っているときに、一人だけベッドの上で横になっていた。その負い目や欲求不満が、今の彼に力を与えている。ただ生きているということだけが、公にとっての幸せではないということさ」
「でも、死ぬことはないじゃない?」
「もちろん、死ぬことは結果でしかない。それ以上に、そこへ至る過程が大切なのさ。公は諸侯から一目置かれる存在になりたがっている。かの大英雄レムベルト皇太子のように。どうせ戦うなら帝国の命運をかけたいくさの中で、誰からも認められる戦果をあげて歴史に名を刻みたいと願っているのさ」
「寂しい老人の、歪んだ欲望ね」
「でも、それを叶えてあげたのは君じゃないか。君が火をつけた。その火は大火となって帝国全土へ燃え広がる。ライヒェンバッハ公の望みという燃料をもとにして」
 ルオトリープは腕にフクロウを止まらせ、微笑みかける。
 人よりも魔女よりもライヒェンバッハ公よりも、誰よりも悪辣なのは目の前の男ではないかと、イドゥベルガは思わずにいられなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み