第4話 ハルツへ Ⅰ

文字数 4,191文字

 帝都プライゼンが襲撃された夜、父母の願いを背負い、シェーニンガー宮殿を落ち延びた皇女レギスヴィンダは、ハルツへ向かい微行(びこう)を続けていた。
 二人の騎士、ブルヒャルト・フォン・ゲンディヒとオトヘルム・フォン・グリミングを伴った皇女は行程の途中で休息のため、街道の酒場へ立ち寄った。
「姫様、よくぞここまで頑張られました。ハルツまでは、あと一息ですぞ!」
 年長の騎士ブルヒャルトが称賛して励ます。
 帝都を発って、二十日近くが過ぎていた。この間、常に魔女の追跡を警戒して緊張感を張り巡らしていた。
 心身ともに疲労したレギスヴィンダはかすかに頷き、感慨深げに葡萄酒の入った木製のカップを手に取る。
 正直なところ、自分でも驚くほど忍耐強くなっていた。
 宮廷にいた頃は、身の周りの世話はすべて侍女に任せきりで、一人では何もできなかった。わがままが許され、贅沢が許され、世間を知らず、苦労を知らなかった。
 それが今では、髪や服は汚れ、足には靴ずれや肉刺(まめ)ができている。野宿することにも慣れ、粗末な食事や、不衛生な環境に適応する我慢強さを身につけた。
「正直、自分は途中で投げ出すのではないか心配していたのですがね?」
 葡萄酒をあおりながらオトヘルムが茶化す。
 苦難を共にしてきた姫と騎士は、すっかり打ち解けていた。当初あった封建的な主従関係は月日によって摩耗し、今では情誼(じょうぎ)の絆で固く結ばれている。
 特に若いオトヘルムは、年齢が近い分だけレギスヴィンダに対して気安く、ブルヒャルトから叱責される場面も多々ある。
 ただしこれは、重く暗くなりがちな使命を背負わされたレギスヴィンダへのオトヘルムなりの励ましや気遣いで、あえて明るく軽妙に振る舞っている部分もあった。
 レギスヴィンダもこれを許し、騎士たちにより大きな信頼を置いた。
「本当は、今でも挫けそうな気持を抱えているのは事実です。でも、お父様やお母様のことを思うと、立ち止まるわけにはいきません。わたくしもレムベルト皇太子の血を受け継ぐ帝国の皇女です。与えられた使命は全うしなければなりません」
 レギスヴィンダが心境を吐露する。
 頑なな決意で自己を律してはいても、帝都から遠ざかるほどに母を想い出し、父を悼まずにはいられない。どんなに気丈に振る舞っても、彼女はまだ十六歳の少女でしかなかった。
「帝都は、どうなっているのでしょうか……」
 寂しげに呟いた。
 宰相府は内外の事情を鑑み、魔女による帝都襲撃事件の全容や正確な情報を公表していない。皇帝が殺害されたことを知った近隣諸国が、この混乱に乗じて攻め入ってこないとも限らないからである。
 それでも完全に人の口に戸を立てることはできず、むしろ不正確な噂や憶測を広める結果を招いた。
「お前知ってるか? 帝都が、魔女に襲われたってよ」
 隣の席から、酔漢たちの会話が聞こえる。今や酒場の話題といえば、こればかりだ。とはいえ情けなくもレギスヴィンダたちは、彼らが発する根拠不明の流言に耳を傾けなければならないほど、情報源が枯渇していた。
「また七十年前みたいのなるのか?」
「勘弁してくれよ。魔女が勝とうが、帝国が勝とうが、結局被害を受けるのは、オレたち庶民なんだからよ」
 魔女によって帝都が襲撃され、皇帝が殺されたという噂は、ほぼ事実のものとして誰もが知ることとなっていた。
 レギスヴィンダにとってショックだったのは、彼らが魔女を憎むわけでもなく、皇帝の死を悼むわけでもなかったことだ。
 庶民は、レギスヴィンダが思っていたほど帝国を頼り、レムベルト皇太子を英雄視しているわけではなかった。
 彼らにとって必要なのはその日を生きるための糧であり、帝国臣民としての矜持や自覚ではなかった。
「何が魔女に勝利した英雄の国だ。七十年前にも、皇帝が殺されるなんてことはなかったのによ!」
「おまけに、騎士団も全滅したそうだ。死んだ騎士たちの首が、城門にさらされたそうだ」
「この先、誰がオレたちを守ってくるんだろうなぁ……」
「バカだな。自分の身は、自分で守るに決まってるだろ!」
「そりゃそうだ!」
 男たちが哄笑した瞬間だった。
 それまで、毎度のことだと白けた様子で話を聞いていたオトヘルムが激高して立ち上がった。
「おい、お前、今何ていった!」
 一人の男の襟首をつかみあげる。
「な、何だよいったい……」
 男は当惑する。レギスヴィンダたちも、何があったのかと驚く。
「騎士団が全滅したっていったな? 本当か!」
 恐ろしいほどの剣幕で詰め寄る。レギスヴィンダにはすぐに理解することができた。オトヘルムの兄、ディートライヒのことをいわれたと思ったからだ。
「し、知らねえよ……オレも他の奴から聞いただけだ……」
 男が答えると、オトヘルムは襟首を放した。男は訳も分からない様子で、椅子に腰かけなおすと首筋をさすった。
「オトヘルム……」
「すみません。ついカッとなって」
 レギスヴィンダが声をかけると、オトヘルムは素直に謝った。
 所詮、ただの噂である。騎士団でも一二を争う実力者の兄が死ぬわけがない。そう自分に言い聞かせ、葡萄酒を飲み直す。
 平静を装ってはいても、レギスヴィンダには隠しきれないオトヘルムの胸のうちを痛いほど理解することができた。彼女も母のことを案じていたからである。
 自分が帝都を発った後、母はどうなったのだろうかと考えない日はなかった。もし同じように、母が死んだという噂を聞かされていたら、レギスヴィンダにも冷静さを保ち続ける自信はなかった。


 日暮れ。
 酒場を後にしたレギスヴィンダたちは、小さな林で野宿することにした。
 季節の上では初夏に差し掛かろうとしているが、夜になればまだまだ寒さが身にしみる。
 レギスヴィンダは倒木に腰かけると、冷えた手を焚き火にかざした。
「姫様、今宵は冷えますゆえ、暖かくしてお休みください。後はわたしとオトヘルムが、代わりで見張りを行います」
 レギスヴィンダの肩にそっと外套をかけながら、ブルヒャルトがいった。
「毎晩、気を遣わせてしまいますね……」
「めっそうもありません。ルーム帝室に忠誠を尽くす騎士として、当然のことです」
 素直に礼をいって、レギスヴィンダは外套にくるまる。
 帝都を発ってからは二人の騎士が交代で、怪しい者が近づかないよう目を光らせていた。
 レギスヴィンダにとって彼らの献身はとてもありがたく、大変なものだろうと気遣った。
「ところで、ハルツのどこへ行けば魔女に会えるのでしょう? 地図によれば、すでにこのあたりはハルツ山地のふもとのはずなのですが……」
「伝承によれば、魔女はブロッケン山にて宴を開いたとされています。ですので、そこへ行けば何らかの手がかりが得られるのではないでしょうか」
「そうですね。ではまず、そこを目指しましょう。魔女たちが、わたくしたちに気づいてくれればいいのですが……」
 レギスヴィンダとブルヒャルトが会話する。そこへ加わろうとせず、少し離れた大木の根に腰掛け、オトヘルムは夕食代わりの干し肉をかじっていた。
「どうした、そんなところにいては寒いだろう。こっちへ来たらどうだ?」
 ブルヒャルトが呼びかけるが、オトヘルムは「構わないでくれ」と断る。
「奴は、何を拗ねているのだ?」
 拗ねているわけではない。酒場でのことが気になっていたのだ。


 夜が更けていく。
 レギスヴィンダは焚き火の前で眠っていた。
「オトヘルムよ、お前も少し休め。あとはわしが見ていよう」
 ブルヒャルトが声をかける。少し機嫌が直ったのか、今度は素直にいうことを聞いた。
「……その前に、少し用を足してくる」
「あまり遠くへ行くなよ。ここはすでにハルツの一部だ。どこかで魔女が見ているやもしれぬ」
「分かってるよ」
 オトヘルムは立ち上がり、藪の中へ分け入った。
「それにしても、今夜はやけに静かだな……」
 用を足しながら、オトヘルムが呟いた。
 普段なら、フクロウやコウモリが飛び交い、森の中では小動物だけでなく、シカやイノシシといった比較的大きな動物に出くわすことも珍しくない。
 なのに、今夜に限ってはすべての生き物が何かに怯えたように息をひそめている。ピンと張り詰めた空気が肌を突き刺すような感覚だった。
 藪の向こう側へ目を向けた時だった。オトヘルムは、あるものに気づいた。
「なるほど、静かなはずだ……」
 闇の中に光る目があった。狼のものだ。
 大きな群れが取り囲んでいた。十頭、あるいはそれ以上の気配を感じる。
 オトヘルムは群の方を睨みかえした。
「バカな狼たちだ……いいぜ、今夜は虫の居所が悪い。みんなまとめて叩きのめしてやる!」
 オトヘルムが戻ってくるのを待ちながら、ブルヒャルトはレギスヴィンダが寒くないよう、焚き火に薪をくべていた。
「それにしても、奴はどこまで用を足しに行ったのだ。もしや、よからぬものでも拾い食いしたのではあるまいな?」
 なかなか戻ってこないオトヘルムを心配する。
 その時である。いまにも消え入りそうな声で自分の名前が呼ばれるのに気付いた。
「ブルヒャルト……」
 声の方を振り返る。すると全身に傷を負い、いまにも崩れ落ちそうなオトヘルムの姿があった。
「どうした! 何があった!?」
 急いで立ち上がり、オトヘルムの身体を抱きとめる。
「すまない……魔女に、やられた…………」
「魔女だと!?」
「ここは危険だ。すぐに、逃げろ……」
「おい、しっかりしろ!」
 意識を失いそうなオトヘルムに大声で呼びかけた。その声を聞いて、レギスヴィンダが目を覚ます。
「何を騒いでいるのですか……オトヘルム、どうしたのですか!?」
 傷ついた騎士を見て粟立(あわだ)つ。
「魔女にやられたといっていました」
「魔女に……!」
 ブルヒャルトが答えると、レギスヴィンダは当惑した。
 魔女というのは、ハルツの魔女のことを差しているのだろうか。レギスヴィンダには分からない。ともかく危機が迫っていることだけは、はっきりと理解した。
「ここにいては危険です。別の場所へ移動しましょう!」
 ブルヒャルトが進言し、レギスヴィンダも了承する。
 オトヘルムの身体を支えたまま、ブルヒャルトが焚火を消そうとしたときだった。
「やっと見つけたよ。こんなところで野宿とは、ルームのお姫様も落ちたもんだね!」
 レギスヴィンダたちの前に、狼の群れを従えた魔女が現れた。
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