第32話 父親 Ⅲ

文字数 3,165文字

 自宅へ着くとルオトリープは女を下ろし、御者の手のひらに金貨を握らせた。
「すまないが、彼女のことは秘密にしておいてくれ。誰でも男女のことは、他人に知られたくないものだろう? これは、ほんの気持ちだ」
「へい……」
 御者が去り、二人だけになるとルオトリープはイドゥベルガという名の女を家の中へ招いた。
「少し散らかってはいるが、遠慮しないで入ってくれ」
 イドゥベルガはローブを目深にかぶり、本当に安全なのだろうかと警戒しながら男の後へ続く。
「今コーヒーを淹れる。どこでも好きな場所にかけていてくれ」
 外から覗かれないよう窓は閉め切られ、家の中は暗い。床には資料や設計図のようなものが散乱し、そこかしこに不気味な模型や標本が並べられている。
 座れと言われても机や椅子の上にも物が積み重なり、一つ何かを動かせば連鎖して他の物が崩れ落ちかねないありさまだった。


 湯を沸かす音が聞こえ、その後コーヒーカップを二つ持ったルオトリープが戻ってくる。
「あいにく砂糖は切らしていてね、このままで我慢してほしい」
 女に向かって話しかけるが、姿が見当たらない。
「イドゥベルガ!?」
 行方を捜すと、部屋の片隅で膝を抱えて座っているのを見つけた。
「すまない。座る場所がなかったね。いま片付けるから待っていてくれ」
「いい、ここが落ち着く……」
「……そうか。これが君の分だ」
 ルオトリープは好きにすればいいと、コーヒーカップを手渡す。
 女がそれを受け取ると、男の肩にフクロウがとまった。
「ひっ!」
 イドゥベルガが怯えた声をあげる。ルオトリープは驚かせてしまったことを謝罪すると、フクロウのことを説明した。
「同居人を紹介するのを忘れていたよ。怖がることはないさ。彼は、今のわたしのただ一人の家族、フリーデルだ」
 そういうと、今度はフクロウの喉を撫ぜながら親しげに話しかけた。
「なんだ、お腹を空かしているのかい? そういえば、今日は食事がまだだったね。フロイヒャウスの奉公人から、ネズミの死骸をもらってきてるんだ。君の、好物だったよね?」
 フクロウを止まり木に移すと、袋の中から土産の死骸を取り出す。
 餌を与えながらイドゥベルガが落ち着くのを待つと、ルオトリープは改めて何があったのか訊ねた。
「なぜこんなところにいたんだい。君は黒き森の魔女集団に参加していたんじゃなかったのかい?」
「さ、参加していた……でも負けた。だから、ここまで逃げてきた……」
「なるほど……」
 うずくまったまま、コーヒーカップを両手で握って女が答える。
 どうりで人目を気にしていたわけだと察する。わずかなことにも、ひどく怯えるはずだった。
「君は勘違いをしている。新しく皇帝に即位したレギスヴィンダ陛下は、黒き森の魔女集団へ掃討は行わないと宣言した。前非を悔い、罪を認めれば処罰の対象にはしないとね。若いに似ず、高い見識と寛大な精神の持ち主じゃないか。わたしは、彼女を支持しているよ」
 ルオトリープは女の誤解を解こうとした。新しい皇帝の誕生とともに、時代も変化している。これからは魔女であっても人の目に怯えることなく暮らしていけることを、友人として教えようとした。だが、女は否定した。
「そんなのデタラメ……わたしの仲間はレーゲラントで捕まって火あぶりにされた」
「それは、本当かい? わたしは公爵の娘から皇帝のことを色々と聞いているが、本気で人と魔女の共存を目指しているそうじゃないか」
「ルーム帝国のいうことは信用できない……そうやって、わたしたちを騙しておびき寄せるつもり……」
「……どうなのかな。わたしの印象では、そのようなことを考える人物ではないように思えるのだが?」
 レーゲラントの事件は一部の諸侯が勝手に行ったことで、レギスヴィンダの意思ではない。しかし、そんな説明をしても、当の魔女たちが納得するはずがなかった。
「戦いはまだ終わっていない。どちらかが死に絶えるまで続く……」
 うずくまったまま暗い目で答えるイドゥベルガに、ルオトリープは取りつかれたような妄執を感じた。
「そうはいっても、君に何ができるんだい? 仲間も失い、たった一人で、魔女としての身分も低い君に。戦おうったって、どうすることもできないじゃないか?」
「分らない……でもわたしが生き残ったのは、リントガルト様の仇を討つため。そのためなら、この命も惜しくない……」
 イドゥベルガの返答に、ルオトリープは肩をすくめてみせた。何の力も持たない弱者が吐き出す大言壮語ほど、虚しいものはなかった。
「わたしには理解できない執念だ……そこまでリントガルトに忠義を立ててどうする? ルームの皇帝が許すといっているのだから、その慈悲にすがる方が、はるかに賢明だと思うがね」
「ルームの皇帝など関係ない。わたしにとっては、リントガルト様がすべて。リントガルト様は、わたしたち力のない魔女にとっての憧れだった……誰よりも強く、誰よりも残酷に人間を殺した。そのお姿に、わたしたちは心ひかれた……夢と希望を与えられた……」
「たしかに、リントガルトは強かった。彼女には、魔女としての純粋さと異常さが備わっていたからね。初めから人ではなく、魔女として生まれてくるべきだったのさ。でも、そんなリントガルトでさえ、ルーム帝国には敵わなかった。彼女よりもはるかに力の劣る君に、仇が取れるとは思えない。残念だけど、夢はもう見終わったんだよ。これからは現実を見据えて、わたしのように別の目的を探して生きていくべきだ」
「違う……リントガルト様が負けたのはルーム帝国にではない。ヴァルトハイデという魔女にだ…………」
「ヴァルトハイデか。そうだね。実際にリントガルトと戦ったのはルームの皇帝ではなく、彼女だったね。だとしても同じことじゃないか。ルーム帝国は、再びハルツと同盟を結んだんだろ? だったら、今回の勝利はそれを成し遂げたルーム帝国の勝利ということになる。君がどんなにレギスヴィンダ陛下を憎んでも、ルーム帝国を滅ぼしたいと願っても、その前に立ちはだかるハルツの魔女に邪魔されてしまう」
「違う……」
「……何が違うんだい? 歴史は繰り返すものさ。七十年前と同じように、ランメルスベルクの剣を持ったハルツの魔女の前には、オッティリアであろうとリントガルトであろうと、いかなる魔女も無力だ。わたしはね、ヴァルトハイデとハルツの魔女を認めてるんだよ。なぜなら、痛快じゃないか。わたしは父を憎んでいた。しかし、研究者としては尊敬していた。わたしは、父が造った魔女の最高傑作はファストラーデだと思っていた。そんなファストラーデでさえ、戦闘においてはリントガルトに一目置いていた。リントガルトに敵う魔女など、この世に存在しないと思っていた。しかし、呪いと妄執が生み出した憐れな女たちも、魔女の正道を継承するハルツとヴァルトハイデには敵わなかった。君も覚えておくがいい。邪道では、陽のあたる場所には立てないことを」
 ルオトリープは、朗々と語ってみせた。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
 しかし、そんな男の自己肯定にイドゥベルガは反論した。
「違う。ヴァルトハイデは、ハルツの魔女ではない……」
「ヴァルトハイデがハルツの魔女ではないだと……?」
 一転し、ルオトリープは冷や水を浴びせかけられた。男は憮然とし、女に質問する。
「何をいっているのだ。ハルツの魔女以外に、ランメルスベルクの剣を扱える者がいるものか。でなければ、ヴァルトハイデは何者なのだ?」
「それは、あなたが一番よく知っている……」
「わたしが、一番よく知っているだと?」
 ルオトリープは困惑し、イドゥベルガを睨みつける。女が、精神までおかしくなっているのではないかと疑った。
 そんな男に対し、女は淡々とした言葉で答えた。
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