第2話 魔女の山 Ⅱ

文字数 3,633文字

 ヘルヴィガに呼ばれたヴァルトハイデは、森の中にある彼女の庵を訊ねた。
「お呼びですか、ヘルヴィガ様」
「ヴァルトハイデ、よく来ました」
 長年ハルツを指導してきた白髪の魔女は窓辺に立ち、片手に伝書鳩をのせていた。
 ヴァルトハイデを振り返るとニコリと微笑み、鳩を放した。
「何かあったのですか?」
 ヴァルトハイデは、ヘルヴィガの手にメモが握られているのを見逃さなかった。
「なんでもありません。ただの私信です。古い友人が、わたしのことを気遣って連絡をくれました」
「そうですか……」
「それより、先日とある魔女がハーブティーを土産に持ってきてくれました。ちょうどお湯も沸いたところです。一緒にどうですか?」
「はい、頂きます」
 ヴァルトハイデは妙な違和感を抱きながらも、誘われるままテーブルに着いた。
 魔女の中には敢えて身分をやつし、市井に暮らす者もいる。その理由は様々で、ハルツと良好な関係を維持している者もいれば、敵対している者もいる。すべての魔女が同じ思想と価値観の下、一枚岩に結束しているわけではなかった。
 ヴァルトハイデが椅子に腰かけて待っていると、ヘルヴィガがハーブティーの準備をして戻ってくる。
 さして広くもない庵に甘い香りが広がる。
(こよみ)の上では間もなく春だというのに、まだまだ寒い日が続きますね。皆、老いたわたしのことを心配して手紙や、このような物を届けに来てくれます。これでも気持ちだけは若いつもりなのですが、そうは思ってもらえないのでしょうね」
 苦笑しながら、ヘルヴィガがいった。
 ヴァルトハイデはハーブティーのカップを唇に運び、ひと口含んでから受け皿に戻した。
 様々な草根木皮を調合した薬液が、冷えた身体を体内から温める。
「ヘルヴィガ様は……」
 ヴァルトハイデはいいかけて言葉を呑んだ。お茶に付き合うために、自分を呼んだのではないはずだと思った。
「何ですか?」
「い、いえ……ヘルヴィガ様は、とてもお若いと思います」
「お世辞をいってくれなくてもいいのですよ?」
「そ、そんなつもりではありません……」
 ヘルヴィガは優しく笑った。
 思わずヴァルトハイデは肩をすぼめて俯く。ヘルヴィガの穏やかな瞳に、すべてを見透かされているような気分だった。
「ところでヴァルトハイデ、あなたはハルツ(ここ)へきて何年になりますか?」
「三年になります」
「そうですか、もうそんなに……この三年の間に、あなたはとても成長しました。それに比べてわたしは、ただ老いて行く一方……」
「そんなことはありません。わたしはまだ、魔女としてヘルヴィガ様の足下にも及びません。ヘルヴィガ様は、少しも老いてなどおりません」
「あなたは本当に優しいですね……ですが、その優しさが取り返しのつかない過ちを生むこともあります。あなたは、わたしのようになってはいけません……」
 切なげに語るヘルヴィガの態度に、ヴァルトハイデは呼ばれた理由が何なのか、おぼろげながら見えてくるようだった。
「わたしは、心からヘルヴィガ様を尊敬しています。行くあてもなくさ迷っていたわたしをハルツへ受け入れてくれた寛容さ、慈しみ、思いやり、すべてがわたしの憧れです。わたしはハルツに来て多くの魔女から様々な術や知識を学びました。自分でも、成長したと思います。もし、わたしにできることがあれば、何なりとお命じ下さい。ヘルヴィガ様のお力になれるのなら、この命を犠牲にしても本望です」
「あなたには未来があります。その若い命を、わたしなどと引き換えにしてはいけません。あなたのためにこそ、この老いた命を使うべきなのです。あなたには大変な運命を背負わせてしまいました。その原因は、わたしにあると言っても過言ではありません。自分が撒いた種は、自分の手で刈り取らなければなりません。ですが、わたしにはもうそのような力も時間も残されてはいません。わたしにとって、あなたは最後の希望。残り僅かなこの命の灯が消える前に、過ちを償う機会をもたらしてくれたあなたに、わたしは感謝しているのです」
 ヘルヴィガは偽りなく真意を語った。
 ヴァルトハイデには、その言葉が本心からのものであることが分かるからこそ、ヘルヴィガに対して妄信的な信頼と尊敬を寄せ、彼女のためなら本気で命を捨てる覚悟を持つことができた。
「ヴァルトハイデ、あの剣が何か分かりますね」
 不意にヘルヴィガは、壁に掛けられた一振りの剣を指した。
「あれこそは呪いの魔女オッティリアの心臓を突き刺した、魔女を討つ剣にございます」
「その通りです。七十年前、オッティリアと戦う帝国の皇太子に、当時の魔女たちが貸し与えた物。あの剣には、このハルツ山地にある鉱山の一つランメルスベルクで採れた銀が用いられています」
「聞いたことがあります。ランメルスベルクの銀には魔女の力を抑える効果があり、あの剣とハルツの助力があったからこそ帝国はオッティリアに勝利し得たのだと。ですが帝国は魔女を討つのに魔女の力を頼ったことを公表できず、このハルツの山々を安堵する代わりに、歴史の事実を闇の中へ隠蔽しました」
「それは少し違います。事実の公表を避けたのは、ハルツの意志でもありました。ハルツは古来より、下界との交流を避けてきました。人と魔女が交われば、必ずそこに(わざわい)が生じたからです。帝国の判断は、わたしたちにとっても身を守るために必要だったのです。ですが、今またその禁を破らねばならない時が来ました」
「それは……?」
「帝国の都が、悪意ある魔女によって蹂躙されました」
 ヘルヴィガの言葉は、ヴァルトハイデにとっても衝撃だった。しかし、その報せが重大すぎるものだったからこそ、若い魔女は自分が呼ばれた理由をはっきり悟ることができた。
 ヘルヴィガが続ける。
「わたしは夢にお告げを見ました。再び世界に闇が迫ろうとする夢をです。本来なら、その闇はわたし自身の手で討ち払わなければなりません。ですが、さきほどもいったとおり、わたしにはもうその力はありません。七十年前の戦いで、ハルツの魔女の多くが命を落としました。今のハルツに、あの剣を扱える者は、あなた以外にいないのです」
「わたしに、魔女を討つ魔女になれといわれるのですか?」
「その通りです」
「………………」
 ヘルヴィガは誤魔化したり、押し付けたりするような素振りは見せなかった。真っ直ぐにヴァルトハイデの目を見据え、厳しいながらも、嫌なら断ってもいいというような態度だった。
 ヴァルトハイデは一瞬、返答を躊躇った。魔女を討つ剣を託されるということは、ヘルヴィガの後継者に指名されるのも同然だった。
 ヴァルトハイデは軽い驚きと、素直な喜びに息が詰まった。無論、断るつもりなど毛頭なかった。
「ヘルヴィガ様のご命令ならば謹んでお受けいたします」
「よくいってくれました。ですが、あなたはまだ克服しなければならない自分自身の弱さを抱えていましたね」
「はい。この身の内側に潜むもう一つの魔女の力。それを完全に制御しえない限りは、魔女を討つ剣を手に取ることはおろか、このハルツの山々から一歩たりとも下界へ出ることはできません」
「あなたの身体に宿る大きすぎる魔女の力……思えば、この三年間はすべて、その力を自分のものとするための闘いだったといえるでしょう。こんなにも長くあなたを苦しめてしまったのはわたしの責任です。あなたに、どのように償えばいいのでしょうか……」
「わたしはヘルヴィガ様を恨んでなどおりません。むしろ、感謝の気持ちばかりです。わたしの身の上を哀れまれることも、ヘルヴィガ様がご自身を責められることもありません。ハルツのため、ヘルヴィガ様のため、身命をなげうつ覚悟は出来ております。ハルツで過ごした三年間で、わたしはどのような場面にあっても己を失わずに済むようになりました。もしもわたしを疑われるなら、どうかヘルヴィガ様の目でお確かめ下さい」
「ヴァルトハイデ、あなたは本当に成長しましたね……」
「すべて、ヘルヴィガ様のお陰です」
「……では、半月後に迫った魔女の夜(ヘクセンナハト)の祭りにて、あなたの力を試します。それまでに心と身体を清めておきなさい。朝は草についた露で喉をうるおし、夜は少量の蜂蜜で空腹をしのぐのです。研ぎ澄まされた精神の持ち主にしか、あの剣を振るうことはできません。すべての邪念、欲望、執着を捨て去り、自分自身に勝利するのです。そうすれば、剣の方からあなたを選んでくれます」
「お任せ下さい。必ず己に打ち勝ち、魔女を討つ魔女となって、再び迫りくる闇を討ち払って見せます」
「頼もしいその言葉に、わたしも勇気づけられます。ですが、あくまでもあの剣は身を守るためのもの。命を助け、生きる目的のために使用するのです。いいですね、わたしのために戦うのではありませんよ」
「心得ています、ヘルヴィガ様……」
 ヴァルトハイデの瞳に、決意の灯がともった。ヴァルトハイデは答えると、その日からほら穴にこもって瞑想を始めた。
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