第40話 合意なき成立 Ⅳ

文字数 3,498文字

 地下牢の魔女は両手に灼熱の魔力を蓄えると、そのままフロドアルトたちに襲いかかるかと思われた。が、黒猫の発した言葉に意識が奪われ、攻撃をとどまった。
「……あなた今、ヴァルトハイデといったわね?」
 イドゥベルガが訊ねた。フリッツィは困惑する。なぜ、そんなことを訊くのかと。
「いったわよ! それがどうしたの? ヴァルトハイデにかかったら、あなたなんかあっという間にコテンパンよ!」
「あの女が近くにいるのね?」
「いるわよ。なんなら、今すぐ連れてきてあげましょうか?」
 イドゥベルガはうすら笑みを浮かべた。
「気が変ったわ。あなたたちと遊んでいてもつまらないから、殺さずに逃がしてあげるわ。その代わりに、ヴァルトハイデを連れてきなさい!」
 フリッツィはますます困惑した。現状なら圧倒的にイドゥベルガのほうが有利だった。なのに、どうしてわざわざ不利になるようなことをいうのか。相手の意図をつかみかねた。
「……ヴァルトハイデがどういう娘か知ってるの?」
 真意を探るために質問する。イドゥベルガは興奮を抑えるように答えた。
「もちろん知っているわ。わたしの目的はヴァルトハイデを殺すこと。リントガルト様の仇を討つためにね!」
「リントガルト……」
 まさか、こんなところでヴァルトハイデの妹の名前が出るとは思わなかった。フリッツィは相手の素性を理解した。
「……あなた、黒き森の生き残りね!」
「そうよ。わたしはあの森で帝国軍と戦った。そして、あなたたちにすべてを奪われた。今のわたしはヴァルトハイデを殺すためだけに生きている。リントガルト様の無念を晴らすために!」
「残念だけど、それは無理よ。確かにあなたは強いけど、その程度じゃヴァルトハイデには敵わない。それに、リントガルトちゃんは無念なんて感じてないわ。あの娘は戦って、理解して、満足して死んだのよ。だから、あなたに仇討ちをしてもらおうなんて望んでないわ!」
「分かった風なことをいうな! リントガルト様は、わたしにとっての希望だった。強き魔女の象徴だった。それを奪ったお前たちを許しはしない。わたしの命に代えても、ヴァルトハイデには絶望を味あわせてやる!」
「分からない娘ね……もう全部終わったの。あなたみたいに夢見て、信じて、裏切られた娘もいたかもしれないけど、みんな前を見て新しい道を歩き出してるわ。皇帝陛下だって、魔女(あなた)たちと分かりあうためにたくさんの反対を押し切って魔女狩りを禁止したのよ。だから自分だけが悲しいとか、ひどい目にあったとか思わないで。みんなで少しずつ乗り越えていくしかないの。その邪魔をしないで!」
「そんなもの、勝ったあなたたちの理屈でしかないわ! 負けたわたしたちには何も残されなかった……わたしが欲しかったのは人間との共存でも平和でもない。ただ、リントガルト様のお傍にいられればそれでよかった……あの日々だけがわたしを慰めてくれた。だから、わたしからリントガルト様を奪ったお前たちを許しはしない!」
 フリッツィは、怨念じみたイドゥベルガの言葉に恐怖を覚えた。
 それはある種の倒錯、殉教者の法悦にも似た自己陶酔に思えた。とはいえ、女の言い分が全く理解できないわけではない。イドゥベルガは執念をたぎらせ、憎しみに囚われることでしか、悲しみの淵へ転がり落ちそうな自分を支えることができなかった。フリッツィは、そんな魔女を過去にも知っていた。
「そんなことのために、貴様たちは父上を利用したというのか……!」
 同情に傾きかけたフリッツィとは対照的に、フロドアルトはより強い嫌悪と怒りをあらわにした。
 病に伏せるルペルトゥスの弱みに付け込むとライヒェンバッハ家を乗っ取り、取り返しのつかない汚名や汚辱を植えつけられた。
 どんな理由があろうとも、イドゥベルガやルオトリープのしたことを許せるはずがなかった。
「勘違いしないで、あなたの父親を利用したのはルオトリープよ。あたしは彼の手伝いをしただけ。ヴァルトハイデをおびき出すためにね!」
「どちらでも同じことだ。やはり貴様たちは、わたしの手で成敗せねばならぬ。でなければ、貴様たちに貶められたライヒェンバッハ家の名誉を回復することは出来ない!」
 フロドアルトは強く剣を握りしめた。しかし、フリッツィはそれでも撤退を主張した。
「……やめなさい。どうあがいても、あたしたちの勝てる相手じゃないわ。ここは潔く出直しましょう!」
「逃げるなら、お前一人で逃げろ! わたしには、この魔女を倒して父上をお救いする義務あがる!」
「聞いてなかったの? あいつ異常よ。あんな奴に勝てるわけないじゃない!」
「そんなことはない! たとえこの身が焼かれようとも、魂の刃で魔女を討つ!」
「もう、なにも分かってないんだから!」
 フロドアルトは再び魔女に斬りかかった。しかし、その切っ先が届くことはない。
 イドゥベルガは易々と攻撃を躱すと、指先に魔力を集めた。
「逃がしてあげるというのに、愚かな息子。父親よりも先に、あの世へ送ってあげるわ!」
 魔女は熱く熱した指先でフロドアルトの胸を突いた。
「ぐはっ!」
 胸骨を突き折り、爪の先が心臓に迫る。
「全身の血液を沸騰させて死になさい!」
 イドゥベルガが灼熱の魔力を送り込もうとした。
「フロドアルト様!」
 だが、それよりも早くヴィッテキントたちは立ちあがると、身を呈してフロドアルトを庇った。
「ここはわたくしたちがお引き受けします。どうか、フロドアルト様はヴァルトハイデ様の下へ!」
 命を捨てる覚悟で、魔女に斬りかかる。そんな側近たちの行為はフロドアルトを説得するどころか、むしろ自尊心を傷つけた。
「……ヴィッテキント。お前たちまでも、わたしではその魔女に敵わぬというのか……!」
 胸を押さえた公子に、すぐさま側近たちが反論する。
「そうではありません! フロドアルト様は、このような場所でお斃れになられてはいけない御身。フロドアルト様がお斃れになれば、誰がルペルトゥス様をお救いするのですか。たとえ魔女を成敗したとしても、玉砕してはならないのです!」
「お前たち……」
 忠臣たちの諫言は、魔女の一撃よりも深くフロドアルトの胸を突きさした。
「我々に構わず、お行きください!」
 フロドアルトのためならば、ヴィッテキントたちは命を投げ捨てるのも厭わなかった。
 男たちが命と忠誠心をかけて魔女に挑む傍らで、急速に冷めていく者がいた。
「ハァ……嫌ねぇ、こういういかにもな主従関係のやり取りって……あたしの趣味じゃないわ……」
 フリッツィは顔をしかめた。胸から血を流してうずくまるフロドアルトを見やると、渋々といった様子で言い放った。
「分かったわ……じゃあ、こうしましょう。あたしもヴィッテキントたちと一緒に残ってあげるから、あなたがヴァルトハイデを連れてきなさい」
「貴様、わたしに命令するつもりか……?」
「そんな身体でなに偉そうなこといってるのよ。ここにいても邪魔なだけよ。馬にまたがって走るくらいならできるでしょ? 家来のことも考えてあげなさい。ついでに、その傷も治してもらうねの」
 フリッツィは冷めた言葉をフロドアルトに浴びせかけると、両手を挙げて魔女の前へ歩み出た。
「あたしたちの負けよ。いうとおり、あのバカ息子がヴァルトハイデを連れてくるから、これ以上誰も傷つけないで」
 恭順の姿勢というには傲慢だったかもしれない。それでも潔く負けを認めて慈悲を乞うた。
「どういうこと? あなたが人質になるとでもいうの?」
「そうよ。あたしと、そこにいる連中が残ってあげるから、それで充分でしょ?」
 イドゥベルガはわずかに逡巡するも、取引としては悪くない材料だった。
「……いいわ。だったら一晩だけ待ってあげる。明日の日暮までにヴァルトハイデを連れてらっしゃい。もし、あなたが途中で死んだり、逃げたり、ヴァルトハイデが拒否した時は、この女もろとも、あなたの部下を全員処刑するわ!」
「おのれ、魔女め……」
 フロドアルトにとっては、不本意極まりない合意だった。しかし、フリッツィの機転がなければ、この場で皆殺しにされていただろう。
 フロドアルトは身体に痛みを、心に屈辱を抱えながら抜け穴を逆にたどって城外へ出ると、フリッツィから聞いた風来の魔女のアジトがあるというクラウパッツへ馬を走らせた。
「あなたたちネズミはネズミらしく、このまま地下牢に入っていてもらうわ」
「だから、ネズミじゃないっての……」
 フリッツィにとっても、不満の残る結末だった。それでも、当初の予定通りベロルディンゲンに潜入するという目的は達成することができた。
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