第31話 ただいま Ⅵ

文字数 2,584文字

「ここも変わってないわね……」
 フリッツィは、かつてブリュネと過ごした自宅へ戻った。
「今もわたしが管理している。いつでもお前が帰ってこられるように」
 フリッツィが音信を絶ってから、二十年が経っていた。その間もブリュネは毛色の違う双子の姉妹が必ずまたこの場所へ帰ってくると信じて待っていた。フリッツィは感謝が止まなかった。
「また、すぐに旅立つのだろう?」
「あたしには、やり残したことがあるから……」
 フレルクがハルツを去った後、フリッツィはヘルヴィガに許可をもらい、何度も山を下りて行方を捜した。しかし、ようとして足取りは掴めず、フリッツィが下界にとどまる時間は長くなった。そしてある日を境に、完全にハルツへ戻ってくることがなくなった。
 口さがない魔女たちは、恩知らずな猫はハルツの暮らしに飽きて下界へ逃げたと非難した。
 しかし、ブリュネは本当のことを知っていた。誰よりも愛情深い姉妹猫が、フレルクを捜す過程で孤児たちに出会い、彼らが成長するのを見守っていたことを。
「あの時あたしが捕まらなかったら、オッティリアを悲しませることはなかった。フリードリヒを狂わせることもなかった……」
「違う、フリッツィのせいじゃない!」
「……それでも、フリードリヒを守るように、あたしがオッティリアに頼まれたの。だから、最後までその責任を取らないといけないの」
「ならば、わたしも同罪だ。わたしにも責任を取らせてくれ!」
「ううん。ブリュネはハルツを守って。全部終わったら、また戻ってくるから。みんなと過ごしたこの場所に……」
 森で拾われた使い魔に、ハルツは幸せばかりを与えたわけではない。
 最大の恩人であるオッティリアは呪いの魔女となり、その息子は悪の研究者となって多くの不幸や悲しみを生み出した。
 使い魔たちは今も自責の念に囚われ、主人の命令に縛り付けられている。
 それでも二人はヴァルトハイデに出会ったことで、ようやくこれまでの思いを清算できるかもしれないと希望を抱いた。
「待っているぞ。必ず帰って来い。ヴァルトハイデやゲーパと共に」
「約束するわ。ブリュネの分も。ヘルヴィガ様の分も。もう誰も悲しませないために」
 姉妹は誓いを交わし、その日は何十年振りかで、二人だけで夜を過ごした。
 翌朝。ヴァルトハイデたちは早い時間から山を降りる支度を始めた。
 次に帰ってくるときは、すべての戦いに終止符が打たれた後になるだろう。
 それぞれが抱える七十年にわたる思いに決着をつけるため、旅立つ者も見送る者も、心に迷いはなかった。


 ヴァルトハイデたちがハルツで過ごしているころ、父の危篤を知ったフロドアルトは故郷であるエスペンラウプにいた。
 ライヒェンバッハ家の居城であるフロイヒャウス城につくと、宮殿内は粛然と静まり返っている。
「お帰りなさいませ、フロドアルト様」
 家令のリングルフが出迎える。
「……父上は?」
「寝室で、お待ちになっておられます」
 ひとまずは間に合ったと、父が生きているうちに帰りつけたことに安堵する。
 フロドアルトはヴィッテキントのみを伴うと、勝手知ったる宮殿内を足早に父の下へ急いだ。
「父上、フロドアルトが帰ってまいりました!」
 寝室のドアを開けるや、フロドアルトは「はっ!」となって立ちすくんだ。
「おお、フロドアルト、早かったではないか。ハッハッハ、すまぬな。わざわざお前を呼び戻させて!」
「父上……」
 そこにはベッドから立ち上がり、血色のいい顔で息子を出迎える父の姿があった。
「どうした、何をとぼけた顔をしている。お前の活躍は聞いておるぞ。大勝利の立役者だったそうではないか。この父に、いつものように自信に満ちた貌を見せてはくれぬか?」
 両手を広げ、朗らかに笑いかける。
「お父さま、無理をいってはいけませんわ。お兄さま急いで帝都から戻ってこられ、疲れてらっしゃるのですから」
 ベッドのそばに腰かけたゴードレーヴァが父をたしなめる。ルペルトゥスはムッとした表情で娘に言い返した。
「何をいっておる。これしきのことで疲れなど見せるものか。のお、フロドアルトよ?」
 息子は当惑するが、父はそんな様子などお構いなしだった。
「……それよりも父上の方こそ、お身体はよいのですか?」
「うむ。お前にも心配をかけたな。だが、この通りだ。今は身体も気分も、どこにも悪いところはない」
 帝都へ届いた報せでは、もはや幾ばくもなく、父が生きているうちにエスペンラウプへ帰りつくのは難しいのではないかと気をもむばかりだった。それが一転して病を克服するばかりか、これまでにないほどの健康を取り戻している。
 フロドアルトは何があったのかと訊ねた。
「実はな、とある名医がわたしの病が篤いということを聞きつけ、駆けつけてくれたのだ」
「……名医ですか?」
「今もこの宮殿に留まってもらっている。そうだ、お前にも紹介しておこう」
 ルペルトゥスが医師を連れてくるよう言いつけると、しばらくして背の高い壮年の男がやってくる。
「よく来てくれた。これが話に聞かせたわたしの息子フロドアルトだ」
 父は古くからの友人にでも対するかのような態度で医師に語りかける。医師も、屈託のない顔でフロドアルトに名乗った。
「お初にお目にかかります、フロドアルト様。わたくしは、ルオトリープと申します。公子の勇名はかねてより公爵様から伺っておりました。お会いできて光栄です」
 一見すると医師とは思えない鋭い視線の持ち主だった。フロドアルトは戸惑いながらも礼を述べた。
「……卿が父を療治してくれたのだな? ライヒェンバッハ家を代表し、わたしから感謝の意を示す」
「ごもったいないお言葉。拙い医術ではありますが、公爵様のお役に立てて幸いです。わたくしにできることがあれば、なんなりとお申しつけください」
「期待している。わたしはエスペンラウプを空けることも多い。今後とも、父の療病に付き合ってくれ」
「お任せ下さい。わたくしの身につけた知識、仁術のすべてをもってライヒェンバッハ家へ奉仕させていただきます」
 男に対するフロドアルトの第一印象は、「名医にしては若いな……」といった程度のものだった。
 特に怪しい様子もなく、父も妹も男を信用しているようだったので何も疑うことはなかった。
 フロドアルトはエスペンラウプに一泊だけすると、翌日には早々に帝都へ戻った。
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