第16話 水より濃いもの Ⅰ

文字数 3,342文字

 シェーニンガー宮殿のパーティー会場に見慣れぬ女が現れた。
 黒いドレスを身に纏い、大人の色香を漂わせる妙齢の美女だ。
 やや吊りあがった瞳は蠱惑的で、口許にはエキゾチックな微笑を湛える。
 会場に居合わせる貴族の女たちからでは感じることのできない謎めいた雰囲気を漂わせ、男たちの視線を独り占めする
 めいっぱいおしゃれをし直してきたフリッツィだった。
「見てる、見てる。みんな、あたしに注目してる……」
 誇らしげに、あるいは当然のように心の中で呟く。
 これまで多くの男を手玉に取り、さんざん浮名を流してきた美猫には、社交界の主役となるぐらいの芸当は朝飯前だった。
 男たちは黒いドレスの女が気になるも、少し危険な香りにしり込みし、誰が最初に声をかけるか譲り合っていた。
 フリッツィはすまし顔でテーブルの上のグラスを手に取ると、再び心の中で呟いた。
「さあ、いらっしゃい、坊やたち。誰からでも相手してあげるわ」
 するとその声が聞こえたのか、率先して話しかける貴公子がいた。
「失礼。あなたの隣に立つことをお許しください。美しい、お嬢さん」
 フリッツィ―は「きたぁーーーーー!!!!」と心の中で叫びながら、相手の顔を見た。
「げっ!! フロドアルト!!!!!」
 とは口には出さないものの、表情は引きつった。
「どうされました?」
「……な、なんでもありませんわ。少し、お酒がむせたみたい…………」
「それはいけません。どこか静かなところで休まれては。こちらへいらしてください」
「し、心配いりませんわ。オホホ……ホントに、気にしないでくださいね……」
 誤魔化しながら会場を逃げ出す。残されたフロドアルトは訳が分からず、最後までフリッツィだと気づくことはなかった。
「おや、フリッツィ殿、どうされたのですか?」
「何でもないわよ!」
 再び警備中のブルヒャルトに声をかけられた。
「なんであいつが寄ってくるのよ! お姫様の結婚相手じゃなかったの? もう、今夜は踏んだり蹴ったりだわ!」
 文句が絶えることはなかった。しかし、フリッツィにとっても永い夜となるパーティーは始まったばかりだった。


 招待客で会場がにぎわっているころ、喧騒を嫌うシェーニンガー宮殿の中庭には、静かに、穏やかに、レギスヴィンダの声が響いていた。
「わたくしには、ジークリヒという歳の離れた兄がいました。兄は優しく、聡明で、幼いわたくしをとてもかわいがってくれました。皇帝陛下も兄の才能を高く評価し、帝国の後継ぎとして大変期待していました」
「ジークリヒ皇太子か……懐かしい。確かに彼は優秀だった。人望人柄、ともに申し分なく、野心的な諸侯でさえ彼には一目置いた」
「もし兄が生きていたなら、わたくしよりももっと上手く諸侯をまとめ、無駄な犠牲者を出さずに済んだことでしょう。何よりも、フロドアルト公子を、あんな風に変えてしまうこともなかったはずです」
「殿下、そのようなことを申されますな。わたしはジークリヒ皇太子という人物を存じませんが、殿下はどなたとも比べようがないほど立派に務めを果たされております。殿下こそ、帝位を継ぐにふさわしい人物だと心得ています」
「ヴァルトハイデ、あなたはいつもわたくしを励ましてくれますね……もしわたくしに帝位を継ぐ資格があるとすれば、それは信頼の絆によって育まれるもの。自身の無力さ、非力さを自覚し、多くの者の助けを借りて、皇帝陛下から託された使命を果たした後に、ようやく認められるものです。だから……あなたにはとても期待しています。わたくしを失望させるようなことは、しないで下さいね」
「もちろんですとも、殿下」
「責任重大だな」
 ともすれば暗くなりそうな会話だったが、勝利を祝賀する記念の夜にそんな顔はできないと、女たちは三者三様の表情で笑顔を作って見せた。
「わたくしのことばかりでなく、たまにはヴァルトハイデのことも聞かせてください。小麦畑の広がる村の出身ということは以前聞きましたが、家族などはいなかったのですか?」
「わたしの家族……」
「何かしてほしいことがあれば、遠慮せずにいってください。せめてもの感謝の気持ちとして、わたくしに出来ることがあれば力になります」
 純粋な好意と善意でレギスヴィンダが訊ねた。
「生憎ですが、わたしにはそのような相手は……」
 いないとヴァルトハイデは答えようとした。が、その言葉を口に出すよりも先に、何かに気づいて夜空を睨みつけた。
「ヴァルトハイデ!!」
 箒に乗って飛んでくるゲーパの声が響いた。
 声の調子から、慌てている様子がレギスヴィンダやグローテゲルト伯爵夫人にも伝わる。
 ヴァルトハイデには、ゲーパが飛んできた理由を聞かずとも、何が起ころうとしているのか察知できていた。
「ゲーパどうしたのですか?」
 何を取り乱しているのかとレギスヴィンダが訊ねた。
「姫様、大変です。大きな魔力を持った魔女が近づいてきます! それも三人も!!」
「大きな魔力を持った三人の魔女……」
「ゲーパも感じたか?」
「当たり前よ。こんな強い魔力、感じないわけないじゃない」
「どういった魔女なのですか?」
「一人はハルツで戦ったファストラーデという魔女と同等かそれ以上。残りの二人も、そこまでではないにしても、並の魔女とは比べものにならない魔力を持っています」
 ヴァルトハイデが答えた。
 ハルツで戦った魔女と聞いてレギスヴィンダにも、あの激しくも悲しい死闘の記憶が甦った。
「……つまり帝都を襲撃した魔女たちが、再び現れたということですね?」
 レギスヴィンダが訊ねた。
「たぶん、そうだと思います。ヴァルトハイデ……」
 不安げな声と表情でゲーパが見つめた。
 一人ずつならまだしも、一度に三人を相手にしなければならないとなると極めて厳しい戦いになるのが予想される。帝都を守備する騎士や兵士も今夜は酒が入っているため、十分な態勢で迎え撃つことは難しかった。
「まさか祝勝会に参加しにきたわけではあるまい。ということは、いよいよ本気でルーム帝国を滅ぼしに来たということか?」
 グローテゲルト伯爵夫人がいった。ヴァルトハイデが答える。
「そうではないと思います。帝国を滅ぼす気があるのなら、その目的はとうに果たされていたはずです。最初に現れたその時に」
「では、他に目的があると?」
「恐らくは、わたしが持つこのランメルスベルクの剣を奪うためでしょう」
「何のために、そんなことを?」
「理由までは分かりません。ですが、ハルツに現れたファストラーデの目的もそうでした」
「ならばその剣を渡せば、魔女は大人しく帰るのだな?」
「そういうことになります」
「何いってるのよ、そんなことしたら、何のためにあたしたちがここまで来たのか分からないじゃない!」
 ゲーパが大きな声で否定した。もちろん、ヴァルトハイデやグローテゲルト伯爵夫人も本気で考えているわけではない。
「では、立ち向かうしかないようですね。ゲーパはすぐに宮廷騎士団に報せてください」
 レギスヴィンダが指示した。
「もうオトヘルムが報せにいってるはずです」
「では、わたくしたちも参りましょう。グローテゲルト伯爵夫人は、招待客とともに避難してください」
「殿下、それは薄情ではありませんか? わたしだけを仲間外れにしてパーティーを続けようなんて、つれないことはいわないでください」
「冗談をいっている場合ではありません。相手は女子供でさえ容赦のない非道な魔女たち。この宮殿の中でさえ、安全とはいえないのです」
「だったら、どこへ逃げても同じということ。むしろ殿下のお傍が一番安全なのではありませんか?」
 グローテゲルト伯爵夫人の肝は座っていた。こうと決めると、どんな説得も通じなくなる頑固さは、レギスヴィンダもよく知っていた。
「……分かりました。くれぐれも無茶なことはしないでください。もしも危険を感じたなら、わたくしたちに構わず避難してください。いいですね?」
「殿下の御寛恕に感謝いたします」
「ヴァルトハイデ、まずはフロドアルト公子に連絡を取りましょう。そして、会場にいる招待客を避難させなくてはなりません」
「承知しました」
 レギスヴィンダは一刻を惜しみ、早急に招かれざる客たちを迎え撃つ準備に取り掛かった。
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