第12話 皇女の帰還 Ⅰ

文字数 4,539文字

 クラースフォークトで大敗を喫したフロドアルトは、命からがら帝都へ逃げ戻った。
 多くの戦死者、落伍者を出し、さらに主を失ったクルムシャイト侯爵軍とメーメスハイム子爵軍がそのまま領邦へ引き上げたため、最後までフロドアルトの麾下にあって帝都へ帰りつけた将兵の数は、出征時の三分の二以下になっていた。
 諸侯の間では、敗北の原因はクルムシャイト侯爵が討ち死にしたことを知ったメーメスハイム子爵が動揺し、無断で兵を引き上げようとしたところを付け入られたもので、フロドアルトの指揮や戦術に不手際があったからではないということにされた。
 しかし、敗戦の報せはすぐに帝国の隅々にまで伝わり、フロドアルトの指揮下に加わろうと考えていた他の諸侯に二の足を踏ませた。
 フロドアルトはアウフデアハイデ城に引きこもると、敗北の痛みを麻痺させるように痛飲した。
「フロドアルト様、それ以上はお身体に障ります」
「黙れ、ヴィッテキント! なぜ、あの時わたしを助けた! こんな汚辱を被るぐらいならいっそ……」
 真昼だというのに窓を閉め切った薄暗い司令室に蒸しかえるような酒気が充満する。腹心の言葉にも耳を貸さず、むしろ責め立てる。その胸にあるのは敗北の真相が知れ渡らなかったことへの安堵ではなく、むしろ腫れものに触るような諸侯の振る舞いや慰め、そして大敗の直接の原因となった首なしの魔女への恐怖と疑惑だった。
 事務机の上には、ラインハルディーネに折られた剣が置かれている。それを見ながらフロドアルトは、やり場のない怒りに身を震わせた。
「なぜこの剣が折られた……レムベルト皇太子の勝利の剣は、魔女に対して必勝不敗ではなかったのか!!」
 どんなにアルコールに溺れようとも、フロドアルトにとって生まれて初めての挫折と屈辱を味わわされたラインハルディーネとの戦闘は忘れられるものではなかった。記憶にも心にも深く刻み込まれ、交わした言葉の片言さえも正確に思い出すことができた。
「……首なしの魔女め、わたしを愚弄しおって! この剣が偽物だったと? では、本物はどこにあるというのだ!」
 フロドアルトは酒杯のワインを一気に飲み干すと、鼻につくようなアルコール臭とともに憤慨を吐き出した。その時、自身の問いかけに応答するように、さらに深く魔女の言葉が思い出された。

「レムベルト皇太子の剣はハルツにあるランメルスベルクという鉱山で採れた銀でできていた。特別な力を宿したその銀を、さらにハルツの魔女たちが十夜絶やさず焚き続けた魔力を帯びた炎で鍛え上げた――」

「ハルツ……」
 その単語が意味するところを自得すると、フロドアルトはわなわなと立ち上がった。
「そうか……それでレギスヴィンダはハルツに!!」
 初めからレムベルト皇太子の剣はシェーニンガー宮殿にはなかったのだ。本物はハルツにあり、レギスヴィンダはその剣を借り受けるために皇帝の指示で魔女の山へ行ったのだと、今さらながら消えた皇女の謎を解き明かした。
「おのれ! 帝室までも、わたしを欺いていたのか! 同じレムベルト皇太子の血を受け継ぐ同族でありながら!!」
 レギスヴィンダはフロドアルトを兄と慕っていた。ジークブレヒトも、いずれ娘婿となる甥を目にかけていた。しかし、これはフロドアルトの誤解になるのだが、帝室の一員とそれ以外の者に対して明確な区別を行っていたのだと思うと、抑えきれない怒りと悔しさが募った。
 フロドアルトは感情のまま折れた剣を床に叩きつけた。
 剣は音をたて、床石に小さな疵を穿ったが、それ自体にひびや刃こぼれが生じることはなかった。たとえ偽物であったとしても、剣としては優秀な業物であったことが、却ってフロドアルトを苛立たせた。
 もはや目に触れることすら腹立たしいと、フロドアルトは折れた剣を処分するようヴィッテキントに命じる。そこへ、兵士が火急の報せを伝えに来た。
 何事かと質すと、レギスヴィンダが帝都に帰還したとのことだった。


 グローテゲルト伯爵夫人の下を訊ねたレギスヴィンダは新たな仲間を加え、その翌日には馬と馬車を駆りて、これまでの停滞を取り戻すように帝都へ急いだ。
「予定してたより、早く帝都についたわね。馬車を貸してくれたグローテゲルト伯爵夫人に感謝しなくちゃ」
 レギスヴィンダと一緒に馬車に乗り込んだゲーパがいった。さらに車窓から街並みを眺めながら続ける。
「それにしても大きな街ね。さすがルーム帝国の首都だわ。フリッツィは、来たことがあるのよね?」
 隣に座る褐色の肌の人猫(カッツェフラフ)に話しかける。
「ずいぶん前だけどね。その時は男にもオス猫にも言い寄られて大変だったんだから」
 自慢げに答える。どこまでが本当のことかは本人にしか分からないが、二人は帝都へ来た本来の目的を忘れたように浮かれていた。
 レギスヴィンダは、そんな二人をほほ笑ましく感じた。しかし、自分自身に対しては、無事に帝都へ帰りつけたからといって気を抜くことを許さず、これからが本当の戦いの始まりなのだと厳しく言い聞かせた。
「どうかしましたか?」
 馬車の外を馬にまたがって並走するヴァルトハイデが、思いつめた表情のレギスヴィンダを気づかって話しかけた。
「不思議ですね。それほど長い間、留守にしていたわけではないのに、とても懐かしい気がします……」
 街並みは復旧され、外観だけは七人の魔女による襲撃が行われた以前の状態に戻っている。
 短期間に街は生まれ変わることができたとしても、心に開いた傷口は簡単に塞ぐことはできない。ましてや、失われた命が再生することはなかった。
「わたくしは、これまで人生のほとんどをこの帝都(まち)で過ごしました。そのためでしょうか、ほんの少し帝都を離れていただけで、こうも懐かしく里心を抱くものだとは思ってもいませんでした……ヴァルトハイデ、あなたの生まれ育った場所はどんなだったのですか?」
「……わたしが生まれた場所は何もない、小麦畑が広がるだけの小さな村でした。今では、どこにあったのか、名前さえ想い出すことができません」
「帰りたいとは思いませんか?」
「わたしの帰るべき場所はハルツです。この戦いに勝利し、ヘーダ様やブリュネ様、そしてヘルヴィガ様の下へ帰ることだけを考えています」
「ハルツはとても素晴らしいところです。その時は、わたくしも一緒に勝利の報告を申し上げに行きましょう」
「是非ともご一緒に」
 レギスヴィンダにはヴァルトハイデの返事が暖かく、とてもありがたいものに感じた。ほんの僅かな期間の滞在だったが、レギスヴィンダにとってもハルツは第二の故郷となっていた。
 レギスヴィンダたちを乗せた馬車はシェーニンガー宮殿へ向かっていたが、その途中でどうしても寄っておかなければならない場所があった。
 歴代の皇帝皇后が眠るドライハウプト僧院教会だった。
 レギスヴィンダは父と母が眠る石棺(サルコファガス)の前に跪くと、使命を果たし終えて帝都へ帰りつけたことを報告した。
「お父様、お母様、レギスヴィンダはいいつけを守り、ハルツの魔女を味方につけて戻って参りました。無事に使命を全うできたのは、お二人が見守っていてくれたからに他なりません。これからも未熟なレギスヴィンダが帝室の代表として国家と臣民を勝利へ導いていけるよう、どうか見守っていて下さい……」
 レギスヴィンダの祈りや誓いにも似た帰還の報告はヴァルトハイデたちの胸を熱くさせ、戦いへの決意をさらに固めるものになった。
 その後、改めて馬車が宮殿へ向かうと、ここまで陪従してきた二人の騎士が姫の下を離れる許可を求めた。
「我々はこれから騎士団本部へ赴き、任務完了の報告をいたしてまいります」
「姫様、数々の御無礼、平に御容赦ください。これからも我々は姫様に忠誠を誓い、生涯をかけて皇帝陛下から賜った勅命を果たす所存であります」
「ご苦労さまでした。あなた達の忠節や活躍に、どれほど助けられ、励まされたことでしょう。わたくし一人では帝都へ帰ってくることはおろか、ハルツへたどり着くことさえ叶わなかったはずです。二人には、心から感謝しています。これからもわたくしのためだけではなく、正義のため、勝利のためにその力を活用してください」
「もったいないお言葉」
「騎士として、当然のことをしたまでです」
 レギスヴィンダは騎士を労うと、感謝の言葉を添えて傍を離れる許可を与えた。
 さらに、ブルヒャルトとオトヘルムはヴァルトハイデたちにも頭を下げた。
「それではヴァルトハイデ殿、ゲーパ殿、フリッツィ殿、姫様をお頼み申します」
「長い間お世話になりました。失礼します」
 ヴァルトハイデたちも彼らに対する感謝は計り知れず、ともに戦い育んだ信頼や友情は生涯を通して失われるものではなかった。
「では参りましょう。こちらへいらしてください」
 レギスヴィンダに案内され、ヴァルトハイデたちが宮殿へ向かう。
 たくさんの兵士や使用人がレギスヴィンダを出迎える。その人の多さに、ゲーパは戸惑った。
「なんだか緊張するわね……」
「そう? これぐらい当たり前よ。なんたって、ルーム帝国のお姫様なんだから」
「そうだけど……」
 年長者のフリッツィは、長年下界で過ごしてきた分だけ肝が座っていた。それに比べてゲーパは、魔女の山から下りてきた自分がなんと場違いな所にいるのだろうか、奇異な目で見られているのではないかと恥ずかしく感じた。改めて、レギスヴィンダが大帝国の皇女だったんだと実感した。
 宮殿を入った広間に宰相のランドルフ・フォン・オステラウアーが待っていた。
「お帰りなさいませ。殿下におかれましてはつつがなき御様子。大命を果たされての還御、臣を代表して奉祝致します」
 恭しく頭を垂れる。
 皇女の帰還は、グローテゲルト伯爵夫人を介して事前に伝えられていた。
 レギスヴィンダの生死が不明の間は、フロドアルトを実質的な皇帝代理とみなしていたが、本来の主人が帰ってくることを知ると、その転身は早かった。
「わたくしが不在の間、帝都を取りまとめ人心の分裂を防いだオステラウアー宰相の功績を高く評価します。皇帝皇后両陛下の恩寵に報いるべく、今後もその識見を存分に発揮することを期待します」
「恐れ入ります」
 レギスヴィンダも形だけの謝辞を述べた。
「それと、もう知っているとは思いますが、こちらの三方はハルツよりお越しいただいたわたくしの客人です。国賓として遇し、不便や失礼のないよう心がけてください」
「承知いたしました」
「わたくしも客人も疲れております。他に、火急の用件があれば手短にお願いします」
「では、恐れながら。アウフデアハイデ城のフロドアルト公子が殿下にお目通りを求めております。いかがなさいますか?」
「フロドアルト公子が……分かりました。誰か、こちらの二人を案内してください」
「はい」
 侍女が歩み出てゲーパとフリッツィを貴賓室へ案内する。
「ヴァルトハイデはわたくしについてきてください。きっと、あなたのことで話を伺いたいのだと思います」
「分かりました」
 レギスヴィンダは、その他のことはオステラウアーに任せるとし、ひと息つく間もなく着替えを行うと、ヴァルトハイデとともにフロドアルトを待つことにした。
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