第1話 帝都襲撃 Ⅰ

文字数 4,211文字

 ルーム帝国暦四百八十五年。帝都プライゼンを満月が照らす。
 かつて、世界を滅ぼさんと目論んだ呪いの魔女の攻撃によって国家存亡の危機に瀕したこの国では、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう魔女への備えと警戒が強化された。
 帝都には精鋭の騎士団が駐留し、昼夜を問わず守りを固めている。
 この夜も、城壁の上で一人の兵士が見張りを行っていた。
「はっくしょん! うぅ、今夜はやけに冷えやがる。ついてないぜ、こんな日に夜番がまわってくるなんてよ……」
 春まだ浅い季節。昼間は陽射によって気温も上がるが、夜になると冬の寒さがぶり返す。兵士は鼻水をすすると夜風に身を震わせながら、冷たくなった手に息を吹きかけた。
 静まり返る帝都の夜更け。青白い月の光が、英雄広場に建てられたレムベルト皇太子の石像を浮かび上がらせる。
 呪いの魔女オッティリアを討ちながら、自らの命をも燃やしつくした救国の英雄は、帝都への凱旋こそ果たせなかったが、彼の魂は今も人々の記憶に生きている。
 帝都を守護する騎士たちはレムベルト皇太子の生きざまを手本に、いつでも魔女と戦う覚悟と準備を整えていた。だが、時が経てば伝説は色褪せ、人々の心にも油断が生じる。
「しかし、皇帝も臆病だよな。英雄の孫だか何だか知らないが、こうも毎晩、見張りを立てなきゃならんもんかね。この七十年間、一度も魔女なんか出たことがないってのによ」
 オッティリアとの戦いに勝利した後、帝国は苛烈なまでの魔女狩りを断行し、多くの者を裁判もなしに処刑した。その中に、実際に魔女だった者がどれだけ含まれていたかは定かでないが、これによって帝国内から魔女は一掃された。
 現在では見張りも取り締まりも形骸化し、魔女への怖れも過去のものとなっていた。
 兵士は眠気と退屈にあくびをし、何気なく空を見上げた。
「……それにしても、今夜は月がよく見える」
 冴えた空気が、より一層月を明るく見せていた。
 底冷えする夜だ。こんな夜は皇帝ならずとも、暖かなベッドで朝まで眠りたいと思うのが人情だろう。だが、そんな眠気をかき消すような出来事が起こった。
 ぼんやりと月を見上げた兵士は、その丸い輪郭の中に空を漂う何者かがあるのに気づいた。
「何だ……こんな時間に鳥か?」
 月の光よりも白く輝く羽を広げたそれを、兵士は白鳥が舞っているのかと思った。しかし、誰もが寝静まる深夜に翼をはばたかせる鳥などいない。
 やがて、それは見る間に接近し、目視でもはっきりと姿が分かる距離へ達する。するとそれは鳥ではなく、白銀の衣をまとい、純白の翼を背中に生やした顔つきに幼さが残る少女であることが判明した。
「人間……いや、違う。あれは――」
 兵士はその存在の危険性に気づくと、声をあげて仲間に報せた。
「魔女だァー!!」
 寝静まる帝都のしじまをつんざいて、兵士の声が響き渡る。
 何人かの兵士は、確かにその声を聞いただろう。だが、彼らにはそれが事実なのかを確かめる時間も手段も与えられなかった。
 危急を報せた兵士は、次の瞬間には空中をはばたく少女の両翼から放たれた銀の刃のように研ぎ澄まされた、鋭利な羽に切り刻まれた。さらに帝都を取り囲む城壁全体に「ドシン!」と、鈍く重たい衝撃が走った。
 振動の発生源は一か所ではなかった。六つの強大な力が、それぞれに城壁を外部から打ち破ろうとしている。
「なんだ、今の音と揺れは!?」
 夜警を行う兵士たちは、地震でも起こったのかと思った。しかし、すぐに振動は足下からではないことに気づく。そして兵士らが壁の外側に注意を向けた瞬間、六つの大きな力が城壁に風穴を開けた。
 瓦礫や破片が散乱し、近くにいた兵士を巻き込む。
 舞い上がった塵と埃が収まると、青白い月の光が力の正体を明らかにした。
 穿たれたそれぞれの穴の向こう側に、銀の装身具をつけた女が立っていた。


 深夜の帝都に発生した異変は、すぐに各所へ伝えられた。
 帝都の守護をつかさどる宮廷騎士団本部でも、兵士が次々と集結し、混乱するなかで状況の把握と確認が行われた。
「こんな深夜に招集がかかるとは、いったい何が起こっているのだ?」
 就寝中に叩き起こされたフォルクラム・フォン・レッターハウスは、軽い苛立ちと戸惑いの中にいた。
「魔女による襲撃があったとの報せです!」
 部下が報告するが、それを聞いても若いフォルクラムは眠たい目を怪訝に細めるだけで、にわかには信じようとしなかった。
「魔女だと? バカなことをいうな。今さら、そんなものが存在するはずなかろう」
 フォルクラムが否定するのも仕方がなかった。帝国と魔女が戦ったのは七十年も前のことで、今やその時代の記憶を持ち合わせる者は少ない。
 フォルクラムはもちろん、彼よりも年長の騎士や兵士の中にも、実際に魔女を見た者はいなかった。
「事実だ。目を覚ませ、フォルクラム!」
 未だ暖かな寝室で平和の夢を見続けているような同僚を叱咤したのは、彼と同じ宮廷騎士団に所属するディートライヒ・フォン・グリミングだった。
 ディートライヒとフォルクラムは年が近く、互いにライバルと認めあう仲である。
「本当なのか、ディートライヒ? なぜ今ごろになって魔女が現れた?」
「そんなことは私の関知するところではない。しかし、魔女が攻撃してきたのは事実だ。私の部下が空を飛ぶ羽根の生えた魔女を目撃している」
「空を飛ぶ魔女……それはどこだ。今からオレが行って成敗してくれる!」
「待て。魔女は一人ではない。報告では、すでに七人の魔女が帝都に侵入している」
「七人だと! この帝都プライゼンは七十年前の戦いにおいても、たった一人の魔女の侵入も許さなかったというのに……見張りは何をしていた!」
「兵を責めても仕方あるまい。我らも、魔女はとうの昔に滅んだと思い込んでいた。騎士団全体に緩みがあったのだ」
「……なんということだ。これではレムベルト皇太子や先人達の英霊に顔向けできなではないか。騎士として、これ以上の不名誉があるか!」
「ならば実力を以って不名誉を晴らすしかあるまい。幸い、皇帝陛下だけはこの事態を予測し、常日頃から魔女への備えと警戒を怠らずにおられた」
「うむ。あの方こそは、レムベルト皇太子の嫡孫。魔女を討った英雄の血を引かれる皇帝陛下の下で戦うからには、我らも百戦百勝でなければならない!」
「ルームの栄光の前には、魔女とて怖れるものではあるまい」
「よくいったディートライヒ。ならば、どちらがより多くの魔女を倒せるか競争だ」
「いいだろう、フォルクラム。負けた方が、明朝の食事を奢ることにしよう」
「心得た。魔女を掃滅し、朝陽が昇るころ、再びここで成果を語り合おう!」
 二人は約束し、それぞれの部隊を率いて出陣した。


 その夜、第二十六代ルーム帝国皇帝ジークブレヒト・フォン・ルームライヒは胸騒ぎを感じて目を覚ました。
 身も凍るような深夜にもかかわらず、身体が熱を持って落ち着かない。
 ジークブレヒトは寝台を出るとガウンを羽織り、窓の外を覗いた。
 喧騒が聞こえる。戦闘が行われているようだった。
「こんな夜更けに何の騒ぎだ。警備責任者は何をしておる!」
 胸騒ぎの理由はこれかと悟ると、ジークブレヒトは憤った。
 ややあって、寝室のドアを叩く音がする。
「陛下、御起床下さい! 只今、帝都内に火急の事態が生じております!」
「すでに目覚めておるわ! いったい何事だ!!」
 苛立つ皇帝の返事を得て、宮廷騎士団を預かる将軍リーゴマー・マルケルト・フォン・オーバーヴァウルがドアを開けた。
 ジークブレヒトは窓辺から振り返り、眉間にしわを刻みつけながらオーバーヴァウルを質した。
「何が起こっておる!」
「陛下、御無事で何よりです。今すぐ避難の準備を御済ませください」
 オーバーヴァウルは齢六十を超える老騎士ながら矍鑠(かくしゃく)とし、ジークブレヒトから絶大な信頼を賜っていた。
「なぜ予が逃げ出さねばならぬのだ?」
 苛立ちを怒りに換え、皇帝が下問する。
 帝国一の元勲であるオーバーヴァウル自ら参内したからには、よほどの事態が生じていることは想像に難くなかった。それでも、どのような事情があろうと、皇帝が深夜に居城を捨てて出奔するなど恥辱以外の何ものでもない。ジークブレヒトは頑として受け付けなかった。
「畏れながら陛下、魔女が現れた由にございます」
「魔女だと?」
 老将が恐懼しながら答えると、ジークブレヒトは眉をひそめた。益々もって怒りを覚えた。
「それは本当か!」
「誠にございます。神聖不可侵であるはずの帝都プライゼンに妖婦の侵入を許したるは臣の不覚。この罪は後日改めて償いますれば、今は陛下の御身の安全のため、どうか御避難下さい」
 オーバーヴァウルは自身の非を認めて請願した。しかし、ジークブレヒトは一顧だにせず、これを拒否した。
「愚か者め! 予を誰と心得る? 予は、かのオッティリアを討ち滅ぼしたレムベルト皇太子の孫なるぞ。その予がなぜ、魔女に怯えて逃げ出さねばならぬ!」
 矜持に満ちた皇帝の返答だった。
 絵画などに描かれるレムベルト皇太子はどれも白皙で、やや線の細い美青年と相場が決まっている。とても呪いの魔女に勝利した英雄とは思えない容姿に加え、性格が穏やかで、出征するまで剣を握ったことさえないと言い伝えられていた。
 これに対してジークブレヒトは体格がよく、心身ともに頑強で、剣術や馬術を好んだ。口許には威厳と風格を備えた髯を蓄え、いかにも英傑の孫と思わしめる容貌を誇った。
「オーバーヴァウルよ、例の剣を持て!」
「例の……レムベルト皇太子が呪いの魔女に止めを刺したといわれる、あの剣でございますか?」
「そうだ。魔女を討つ剣にして、英雄の血脈であることを証明する勝利の剣。予は一歩足りともこの場を離れぬ。オーバーヴァウルよ、そなたが責任を感じているのであれば、騎士としての務めを果たすことで償うがよい」
「御意!」
「よいか、兵士たちよ。予の前に魔女を引っ立てよ。ルーム皇帝は魔女に対し、決して後ろを見せぬと心得よ!」
「はっ!!」
 ジークブレヒトは、その血脈の意地と誇りにかけて徹底抗戦を宣言した。
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