第1話 帝都襲撃 Ⅳ

文字数 4,305文字

 魔女の襲撃によって、帝都プライゼンは壊乱状態に陥った。
 もはや魔女に勝利した帝国の臣民などという誇りや自覚もなく、恐怖した人々は無秩序に逃げまどい、中には混乱に乗じて盗みを働く者や、斃れた兵士の装備品を剥ぎとって持ち去る輩さえいた。
 それでも澎湃(ほうはい)として押し寄せる不安や漠然と広がる緊迫感に呑み込まれることなく、冷静に状況の把握に努めようとする女性がいた。
「いったい、何が起こっているのですか? もれ聞こえてくる声によれば、魔女が現れたと言い交わしているようですが……」
 シェーニンガー宮殿の一室で侍女に訊ねるのは、ジークブレヒトの一女であり皇位継承権第一位にある、この年十六歳になる皇女レギスヴィンダだった。
 レギスヴィンダも何者かが帝都に侵入し、戦いが行われていることは理解できていた。しかも、相当に旗色が悪いことにも気付いている。
「お待ちください、姫様。より詳しいことを知るために、別の者を調べに行かせております」
 侍女が答えるが、それさえも要領をえない。侍女も騒ぎに気づいて目を覚まし、レギスヴィンダが心配になって部屋へやってきたところだった。
 そこへ、また別の女性がやってくる。不安げに窓の外を覗いていた皇女は、ドアをノックする音に気づいて振り返った。
「お母様!」
 現われたのはレギスヴィンダの母、ジークブレヒトの(きさき)ラウレーナだった。
「無事でしたか、レギスヴィンダ?」
 ラウレーナは調べに行った侍女と、二人の騎士を伴っている。レギスヴィンダは何が起こっているのか、母に訊ねた。
「帝都に魔女が侵入しました」
「魔女が……」
 レギスヴィンダは、やはりそうだったかと、聞こえていた声が事実であったことを知って愕然とするも、逆に心の整理がついて落ち着いた。
「お父様はご無事なのですか? このことを、もう御存じなのですか?」
 矢継ぎ早に質問を投げかける。魔女が帝都に侵入したとなれば、その目的は容易に察しがつく。娘が、自分のことよりも父を案じるのは当然だった。
「もしまだ宮中におわすようでしたら、わたくしたちと共に御避難あそばれるよう、申し上げなければ……」
 娘がいうと、母は毅然と答えた。
「皇帝陛下に、そのような心配は無用です。ルーム帝室は、かのオッティリアに勝利した英雄の家系。陛下が魔女を怖れて、どこへ逃れるというのです?」
 母に言われ、レギスヴィンダはその通りだと内省する。
「……そうでした、お母様。レギスヴィンダが間違っておりました。わたくしも皇帝陛下と共に、魔女に立ち向かう義務を果たしとうございます」
 彼女自身、英雄レムベルト皇太子の曾孫にあたる。その自負と誇りは、いずれ帝国を継ぐものとして養われ、自発的にも義務的にも身につけていた。
 そんな、父帝に対して絶対的な信頼を寄せる娘を、母は不憫に思った。
「陛下とわたくしは帝都に残り、臣民に対してルームの威信を示さなければなりません。ですがレギスヴィンダ、あなたは、ここにいてはいけません」
「どうしてですか、お母様?」
 娘には、母の真意が理解できない。母は悲しく、寂しそうに答えた。
「あなたには、なさなければならない使命があります」
「……わたくしの使命?」
「そうです。呪いの魔女に打ち勝ったレムベルト皇太子の後胤(こういん)として、生まれながらに定められた血の宿命です」
 帝都に魔女が侵入した後、これを防ぎきれないと悟ったジークブレヒトは、信頼のおける騎士にある指示を行っていた。
「いずれ魔女はここへくるだろう。予の命を奪うために。ブルヒャルトよ」
「はっ!」
「そなたに託したいものがある。これを持って、ラウレーナの下へ行け」
「皇后陛下の下へですか?」
「そうだ」
 ジークブレヒトは、常に肌身離さず身につけている銀のペンダントを外すと、ブルヒャルト・フォン・ゲンディヒという名の騎士に手渡した。
 ブルヒャルトは五十代半ばの年齢ながら、体力的には若い騎士にも劣らず、忠誠心のためなら死をもいとわない熱血漢である。
 ペンダントを受け取った時、ブルヒャルトは皇帝が死を覚悟し、形見を託そうとしているのだと思った。だが、ジークブレヒトはそれほど潔くもなく、感傷的な人間でもなかった。
「よいか、再び魔女が現れたとなれば、帝国全土を巻き込んでの戦乱になるのは必至。これを食い止めるのは、皇帝としての予の責務だ。しかし、人の力だけで魔女に対峙するのは困難。これをラウレーナに見せよ。予の意図するところを推して知るだろう」
「はっ、命に変えましても!」
 勅命を帯びたブルヒャルトはラウレーナの下へ急いだ。そして、ペンダントを受け取った皇后は天子の聖慮を余すことなく読み取り、レギスヴィンダの部屋へやってきた。
 母が娘に言い聞かす。
「あなたにこれを預けます」
「これは、お父様が大切にしていらした……」
「あなたは、これを持ってハルツへ行くのです」
「ハルツ……魔女が集まるという、あの山へですか?」
「そうです。そこで、善なる魔女たちに助けを求めるのです」
「……善なる魔女?」
「魔女に敵うのは魔女だけ。この危機を乗り切るには、彼女たちの力が必要なのです」
 ペンダントを受け取ったとき、レギスヴィンダは何故そのような者たちの助けが必要なのかと否定的な感情を抱いた。
 ルーム帝室は魔女に打ち勝った英雄の家柄。その帝国の姫が、なぜ魔女に助けを乞わなければならないのかと矜持が反発する。
「嫌です、レギスヴィンダは父母を残して、一人でそのような場所へはいけません」
 レギスヴィンダは、母が自分を逃がすための口実を繕っているのではないかと疑った。もし、それほどまでに状況が切迫しているのなら、なおさら一人で帝都を離れることはできない。
 ラウレーナは、娘の鋭敏さと思いやりに胸を痛めた。確かに、発言の半分はレギスヴィンダを逃がすための方便だった。しかし、残りの半分は事実であり、その理由を悲痛な面持ちで語った。
「このペンダントは、レムベルト皇太子から婚約者だったゴーデリンデ妃に形見として与えられたものです。さらにそれをあなたの祖母であるジールーン皇太后が、ジークブレヒト陛下に下賜されたもの。いわば、英雄の子孫であることを証明する形代(かたしろ)です」
「はい、お母様。そのお話は、わたくしも聞いたことがあります」
「ですが、元々このペンダントの持ち主は、ハルツの魔女だったのです」
 母の話を聞いて、レギスヴィンダは驚倒する。
「なぜレムベルト皇太子の形代をハルツの魔女が……」
「その理由は、わたしの口からはいえません。あなたは、これを持ってハルツへ行くのです。そして魔女たちから、七十年前の戦いとレムベルト皇太子にまつわる真実を知るのです」
「真実……」
「それを知り、魔女たちの許しを乞えば、きっと力を貸してくれるはずです。魔女を味方につけ、帝都へ帰ってきなさい。それが、あなたの身に流れる血の宿命です」
「待って下さい。わたくしが、許しを乞わねばならないのですか?」
 レギスヴィンダが訊ねたが、それ以上の説明は自分にはできないとラウレーナは口をつぐんだ。
「さあもう行きなさい。女であるあなたがハルツへ行くのは、非常に困難を極めます。供として、この二人を帯同させます。一人で無理をせず、何かあれば彼らに頼りなさい」
 ラウレーナは、ブルヒャルト・フォン・ゲンディヒと、オトヘルム・フォン・グリミングという名の騎士に護衛を命じた。
「この命に代えましても、姫様をお守りいたします」
 恭しくかしずいてブルヒャルトが誓約する。
「グリミング家は代々帝室に忠誠を尽くしております。我が兄ディートライヒの分まで、レギスヴィンダ様のお供を務めさせていただきます」
 オトヘルムがいった。彼はディートライヒの弟で、この時はまだ兄が戦死していることを知らなかった。
「今なら混乱にまぎれて帝都を離れることができます」
 母が娘を送り出そうとする。
「待って下さい! どうしても、お母様が行けとおっしゃられるのでしたら、レギスヴィンダはどこへでも参ります。ですが、ハルツに魔女が集まったのははるか昔のこと。今の帝国には、ハルツはおろか、どこを探しても頼る魔女などいないはずです!」
 レギスヴィンダの疑問は当然のものだった。騎士も将軍も姫も、魔女は滅びたと信じていた。
「いいえ、今も魔女は存在します。こうして帝都に現れたのが何よりの証拠。あなたは、この危機をハルツに伝えなくてはなりません」
「ですが、お母様……」
 レギスヴィンダは、まだすべてを理解し納得したわけではなかった。しかし、母が発した次の言葉には、逆らうことができなかった。
「皇帝陛下は、あなたのために命を賭して時間を稼ごうとしているのです。娘である、あなたがそれを理解しなくてどうするのですか?」
「それでも、わたくし一人で王宮を離れることはできません……」
「いいですか。あなたの身体には、この国を継ぐルームの血が流れているのです。決して、その血を途絶えさせてはいけません。父も母も、そのために戦うのです。分かりますね?」
 優しく諭す母の言葉は、どのような血や宿命よりも重たかった。皇女ではなく一人の娘として、父や母の願いには逆らえなかった。
「さあ、お行きなさい。あなたの使命を果たすために」
「分かりました、お母様……」
 最後にラウレーナはレギスヴィンダを抱きしめた。英雄の子孫になど生まれなければ、このような苦難を背負わずに済んだだろうと不憫に思いながら。
 レギスヴィンダに侍女が旅支度を渡す。着替えている暇もないので、ひとまず寝衣のまま寝室を離れる。
 母はその姿を見ながら、悲しげに呟いた。
「必ずハルツへ行き、魔女を味方につけるのです。あなたはルームの最後の希望。あなたが帰ってくるのを、母はいつまでも待っています……」
 レギスヴィンダは二人の騎士とシェーニンガー宮殿の地下にある避難路をたどって帝都の外へ出た。
 そこで着替えを済ませ、川べりの草地で帝都を仰ぎ見た。
「お父様、お母様、レギスヴィンダを見守っていてください。この身に代えても、大命を果たして帰ってまいります。それまで、どうかご無事で……」
 朝焼けのためか、それとも帝都を焼く焔のためか。東の空が赤く染まる。
 レギスヴィンダは首にかけた銀のペンダントを握りしめると、まなじりを決してハルツを目指した。
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