第32話 父親 Ⅱ

文字数 2,233文字

 レーゲラントからさして遠くないエスペンラウプでは、病を克服したライヒェンバッハ公ルペルトゥス・ゲルラハがリハビリを兼ねて乗馬を行っていた。
「ハッ! ハッ!」
 公爵家の宮殿であるフロイヒャウス城の馬場に駒を追う声が響く。
 その顔は血色が良く、鞭を打つ手には力がこもり、長らく病臥していた人間とは思えない活気をあふれさせている。
 馬場の片隅では娘のゴードレーヴァが安心しきった様子で、愛馬との一体感を楽しむ父を眺めていた。
「でも本当に良かった。お父様が元気になられて」
「わたくしの治療はきっかけを与えたにすぎません。公爵様がここまで回復されたのは、ゴードレーヴァ様の献身的な介護によるものです」
 答えたのは、ルオトリープという名の若き医療者だった。
 多くの医師や高価な薬石も癒すことができなかったルペルトゥスを平服させた功績は高く評価され、ルオトリープは公爵家から多大な信頼と報酬を得ることとなった。
「それにしてもすごいわね。ルオトリープは、どこで医術を学んだの? まるで魔法みたい」
「亡くなった父が行っていた研究を引きついだだけです。評価されるべきは父であり、わたくしではありません」
「そういう謙虚な姿勢だから真面目に研究を続けてこられたのね。亡くなられたお父様も喜んでるんじゃない?」
「父はわたくしの誇りでした。多くのことを教えていただき、父から学んだことは一生の宝になっております」
「あなたにそこまでいわせるなんて、とても素晴らしい父親だったのでしょうね。生きている間にお会いしたかったわ。これからも、その宝物を我が家のために役立ててください」
「もちろんです。すでに公爵様からは、過分の栄誉と褒美を頂いております。今後も微力を尽くし、ライヒェンバッハ家に奉仕させていただきます」
 ゴードレーヴァは何一つ相手を疑うことなく、ルオトリープも何食わぬ顔で調子を合わせた。
 会話を続ける二人のところへ、公爵が戻ってくる。
「どうだゴードレーヴァよ、父の手綱さばきは様になっていたであろう?」
「はい、お父様。でも、あまり走らせすぎると、お父様より先に馬の方がまいってしまいますわ」
「ハッハッハ、これしきのことで音を上げるものか。こやつも、まだまだ走り足らぬといっておるぞ!」
 ルペルトゥスは機嫌よく、馬の首筋を撫ぜてやる。
「畏れながら公爵様、体調が回復されたとはいえ、まだ無理をされてはなりません。本日のリハビリはこれまでにし、宮殿にてお休みください」
「何を言うか、ルオトリープ。今のわたしは、すべてにおいて充実している。まるで十歳は若返ったようだ。休んでなどいられるか!」
 そう言うと公爵は駒の腹を蹴って馬場へ駆けだす。まるで長く患っていた間の空白を取り戻すかのように、時間を忘れて乗馬に熱中した。
 そんな父の姿を、ゴードレーヴァは心から嬉しそうに眺めた。


 午後になり、さすがに疲れたのか、ルペルトゥスは宮殿の自室へ戻り昼寝を始めた。
「では、わたくしは研究室へ戻らせていただきます。公爵様には、くれぐれも無理をなさらぬようお伝えください」
 ゴードレーヴァに言付けし、フロイヒャウス宮殿を後にする。
 ルオトリープは馬車に乗り込むと、自宅を兼ねた研究室へ向け出発した。
 車窓から街の景色を眺めると、男はほくそ笑んだ。
「何もかもが順調だ。ライヒェンバッハ公の容体は劇的に改善し、わたしへの依存度も増している。願ってもないことだ……」
 誰も自分の正体に気づいていない。否、気付かれるはずがない。まさかライヒェンバッハ公の病を治した主治医が、七人の魔女を生み出し、帝国に戦いを挑んだ大罪人の息子であるなど、患者自身ですら気づくはずがなかった。
 このまま世を欺き、自分の好きな研究だけに没頭して生きていければ、他に望むものはないとルオトリープは満足していた。
 若き研究者を乗せた馬車がエスペンラウプの街を走っている時だった。
「どう! どう!」
 突然、御者の声が響いた。
 車体が大きく揺れ、馬車が急停止する。ルオトリープが何ごとかと訊ねる間もなく、御者の怒声が聞こえた。
「この野郎! 急に飛び出してきやがって! 轢かれたいのか!!」
 窓の外を見ると、ローブを被った女が倒れていた。
 幸い御者の反応が早かったため、女が車輪に巻き込まれることはなかった。
 御者はそのまま女を放置し、馬車を走らせようとした。
「待ってくれ!」
 ルオトリープが御者にいった。馬車を止めると、ドアを開けて女に呼びかけた。
「イドゥベルガ!」
 名前を呼ばれた女は怯えた様子で振り返る。ルオトリープは改めて女の顔を確かめた。
「……やはりそうだ。わたしだ、ルオトリープだ。父の研究室で、君とは何度か会ったことがあるはずだ」
「ルオトリープ……」
 女は警戒しながら男の顔を見やった。そして、ハッとなって想い出した。
「なぜ、お前がこんなところに……」
「それは、わたしのセリフだ。まさか、こんなところで君に再開するとは。世間は広いようで、意外と狭いのかもしれないな……いや、そんな悠長な話をしている場合ではないか……」
 道端に馬車をとめて、長々と通行を妨げているわけにはいかない。また女は周囲を気にして、人目を恐れているようでもあった。
「ここで再開したのも何かの縁だ。乗らないか? 近くにわたしの研究室がある。君も、訳ありなのだろう?」
 ルオトリープが誘うと女はわずかに躊躇う素振りを見せたが、藁にもすがる思いで馬車へ乗りこんだ。
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