第3章  1983年 – 始まりから20年後……4 十六歳の少女

文字数 1,722文字

               4 十六歳の少女


 かなり動揺していたが、成城に到着する頃にはずいぶんと落ち着きを取り戻していた。
 もちろん本当は、今でも不安でいっぱいだろう。それでも智子はタクシーを降りると、
「すみません、お借りしたハンカチ、どこかでちゃんと洗って返しますから」
 元気よくそう言って、剛志にチョコンと頭を下げた。
 そこは駅前、街灯のすぐ下だ。剛志はそこで改めて智子の立ち姿に目をやった。
 元はきっと白かったのだ。しかし乾いた泥で覆われて、運動靴に白いところは残っていない。セーターにもあちこちに草木と擦れた跡があり、さらに転んで付いたのか、スカートには茶色い土がしっかりこびりついている。
 そんな自分の姿に、智子はきっと気づいていない。
 ――まずは、彼女の格好をなんとかしなきゃ……。
 剛志はすぐにそう考えて、思ったままを智子へ告げた。すると彼女も自分の姿に十分驚き、
「さっきのタクシーの座席、きっと汚しちゃったわ……どうしよう……?」
 そんなことを呟きながら、スカートに付いた土を必死になって擦り始める。
 剛志はそんな仕草が愛おしく、智子を思わず抱きしめたいなどと思ってしまった。
もちろんそんなことをしてしまえば、智子はきっと大声をあげ、その後はどうなってしまうか見当もつかない。だから己の感情をグッと堪え、平静を装い智子に言った。
「服を買いましょう。このすぐ近所に、昔会社で一緒だった女性がやってるブティックがあるんですよ」
 ただし店では、今日あったことは内緒だと続けて、
「親戚だってことにしましょう。僕が適当に説明しますから、あなたは黙って、ただ笑っていれば大丈夫……」
 そう言った後、財布にいくら入っていたかを思い浮かべた。
 こんなこともあろうかと、十万ちょっとくらい入れてあったはずだ。しかし成城にあるブティックの中で、その店は十分高級な部類に入るのだ。
 ――十万じゃ、足りないか……?
 三月とはいえまだまだ寒い。していたはずのマフラーも消えて、智子はコートさえ羽織っていない。
 ――もし足りなければ、明日、持ってくるからと頼んでみよう。
 彼は素直にそう思って、人通りの少ない道を選んでブティック目指して歩いていった。
 前触れなしの登場に、店主はその目を白黒させる。それでもすぐに、入り口に立つ剛志を見つめて嬉しそうに笑って見せた。それからひと通りの挨拶を交わし、いよいよ智子のことを切り出そうとした時だった。
「あら、可愛い……こちら、児玉さんのお嬢さんです? あれ? ちょっと待って、児玉さん、結婚してましたっけ?」
 五年前まで、剛志のアシスタントだった店主、藤本早苗が、真剣な顔でそんなことを言ってくる。だから剛志は慌てて、用意していた言葉を捲し立てた。
「違う違う! 昔世話になった親戚の娘さんだよ。ここにくる前にね、彼女つまずいて転んじゃって、服を上から下まで汚しちゃったんだ。だからすまないけどさ、彼女に似合いそうなやつを見繕ってもらえるかな……?」
 すると店主は、智子の姿を上から下までササッと眺める。
「ふーん、親戚の娘さん……そうですか、了解です。それじゃあとにかく、上から下までぜんぶってことで、いいんですね?」
 藤本早苗はそう言ってから、
「下着はどうします? うちの下着って、どれもセクシー系になっちゃうんですよ……」
 スッと耳元に顔を寄せ、そんなことまで聞いてきた。
 正直、下着のことまで考えてはいなかった。だがなんにせよ、彼女のセンスは信用できる。だからすべて任せるからと、
「とにかく、彼女と二人で決めてください。たださ、これで足りなかったら、明日にでも払いにくるから、不足分は一日だけ、ツケにしといてもらえるかな?」
 剛志はそう言って、札入れごと店主に預けようとした。
 そんな彼に、彼女は明るく言って返す。
「いいですって、児玉さんから儲けようなんて思っていませんよ。後日、仕入れ原価を計算してお知らせしますから。さあ、お財布なんてしまってください……」
 請求書を送ってくれると言って、一切金を受け取ろうとはしなかった。
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