第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 4 生き抜く

文字数 1,418文字

                4 生き抜く


 もともと、労働者向けの簡易旅館だったところが、戦後次々と連れ込み旅館に変わっていた。
 宿泊なら一日一回転だ。ところが連れ込み旅館にすれば、一日に何回転もしてくれる。
そんな旅館を、空襲によって家を焼かれた夫婦ものや、未婚のカップルたちがこぞって利用したのだった。
 もちろん商売女が利用することも多かった。表では実際不衛生だし、特に夏場は大事なところが蚊に刺されたりして具合が悪い。
 彼女も必ず連れ込みを利用して、表を望む客は断るよう決めていた。
 そしてある日、運命というべき偶然が起きる。以前よりさらに太っていたが、それはあの日、マシンの中で見かけた〝もんぺ姿〟の女だった。
 相手は智子を覚えておらず、いきなり彼女に向かって言ってきた。
「ちょっと新人さんさ……、そんなところに立たれてちゃ、こっちがやりにくくてしょうがないだろう。さっさとさ、違う場所にいってやっておくれよ!」
 そう言って、睨みつけてくる女の手首に、智子のしていた時計が巻かれているのだ。
しかし智子の方も腕時計どころか、女とのことだって覚えていない。だから単なる商売敵で、すぐに忘れてしまうような存在だった。
 ところが女が突然死んだ。まさに声をかけられた夜のことだ。
〝ともえ〟という名で通っていた女は、いつものように人気のないところで商売をして、金を払おうとしない客と言い争いになった。致命傷は、銃による後頭部への一発。その銃弾からして、犯人が日本人である可能性は少ない。
 となればこの時代、それは犯人などいないと同じことだ。
 彼女はつい宿代をケチったか――単に時間が惜しかっただけかもしれないが――とにかく、そのせいで見事なまでの犬死にとなっていた。
 ――人通りのない裏路地で、商売なんかするからだ。
 そんな目に遭わないためにも、智子は絶対外でのことをしなかった。そして優しそうな目をした〝日本人〟だけを選んで、いつも同じ連れ込み旅館でと決めている。
 そうすると旅館の従業員――と言っても、年老いた両親と、行き遅れたその娘だけ――とも親しくなるし、日本人に関してならば、室内では滅多に変なことはしてこない。
 今日も人の良さそうな男に声をかけ、智子はいつもの旅館の二階にいた。
「どうして……君みたいな子が、こんなことをしてるんだ?」
 そして新聞社に勤めているという初めての客が、真面目な顔してそんなことを智子に聞いた。
 実際のところ、こんな感じを言ってくる客はけっこういて、
「することしといて何言ってるの? こんな時代に身寄りもなければ、こうでもしないと生きていけないの。新聞記者なら、それくらいのことわかるでしょ」
 いつもこんな感じに言い返すのだ。
 するとたいがいは押し黙って、そそくさと帰り支度を始めるか、「心配してやってるんじゃないか!」なんて大声を出しつつも、だからどうしてくれるとは決して言わない。
 ところがこの男はそうじゃなかった。
「そんなことはないよ。いくらにもならないかもしれないが、住み込みの女中とか、君くらい可愛かったら、他にだっていくらでも仕事はあるさ」
「いくらにもならないんじゃ困るのよ。できるだけ早く、たくさん稼ぎたいからこうしてるんでしょうよ」
 智子がそう返してすぐ、どうして? ――きっとそんな感じを言いかけたのだ。しかし理由を耳にする勇気がなかったか、男は一度口にしかけた言葉を呑み込んでいた。
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