第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 3 岩倉友一(4)

文字数 1,055文字

                 3 岩倉友一(4)


 昭和二十一年の秋口のことだ。朝起きると布団は空っぽ。ちゃぶ台の上に封筒だけが残されていた。中には〝岩倉節子〟という戸籍謄本が入っていて、岩倉が書き残した短い手紙が添えられている。
 ――これからは、岩倉節子として生きてほしい。
 たったそれだけ書かれていて、智子は意味がわからず彼の帰りをただ待った。
 ところが一晩待っても戻ってこない。そしてその朝、いきなり大家さんが玄関口までやって来て、心配そうな顔で言ってきたのだ。
「さあ、そろそろ寝ようかって時よ、いきなりお宅の旦那がやって来てさ、一年分の家賃を払っとくって言うのよ。まあさ、うちにとっては願ってもない話だからさ、ありがたく受け取ったわけよ。ただね、その時すごく慌ててね、まるで誰かに、追われてるみたいだったのよ。だからね、どうしたのかなって気になっててさ。で、どうなの? ほんとに大丈夫なの? なんならさ、半年分くらい返したって、こっちはぜんぜんいいんだからね」
 そろそろ還暦かってくらいの大家がそう言って、部屋の様子を覗き込もうとその目をキョロキョロと動かした。そして結局、彼は戻ってこないのだ。
 新しい名前を智子に残して、何も告げずに消え去ってしまった。
 ――きっと、何か危ないことをしてたんだ……だから、きっと……。
 こんな簡単に――本当に簡単だったのかは知る由もないが――戸籍を手に入れ、いつもたった数時間でそれなりの金を稼いでくる。そんなのが普通であるはずがないし、追われていたという想像だってたぶん当たっているのだろう。
 そして岩倉がいなくなって、さらに三月くらいが過ぎた頃だ。智子はその頃やっと、妊娠している自分に気がつくのだった。
幸い一年やそこら、暮らしていける蓄えはある。
しかし成長する子供を抱えて、いつまでも働かないで暮らしてなどいけない。考えれば考えるほど不安は募るが、
 ――今はまず、元気な赤ちゃんを産むことだけ考えよう!
 智子は素直にそう思い、出産に向けて着々と準備を進めていった。
 それでも唯一、岩倉は日本人には珍しいくらいの長身だったから、
 ――あんなのっぽの女の子が、もしも生まれてきたらどうしよう。
 そんなことを、智子は本気で心配したりする。
 そうしてほぼほぼ七ヶ月経って、身長、体重ともに標準と言える女の子を無事出産。智子は赤ん坊に、友一の〝友〟を取って友子(ゆうこ)と名付けた。
 その子は智子の小さい頃そっくり。
 そしてまさに、天使のように可愛らしい女の子だった。
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