第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 2 昭和二十年 春(4)

文字数 1,206文字

 2 昭和二十年 春(4)
 

 どこの馬の骨とも知れない女を、息子の嫁にするなんてとんでもない。
 一言で言えばそんな理由で、智子がたぶらかしたと言わんばかりの言い方だ。もちろんそんな気はないと必死になって説明するが、到底ちゃんとなど聞いてはくれない。
 剣幕は最後の最後まで収まらず、
「今後一切、息子に近づかないでいただきます!」
 こんな言葉をピシッと放ち、さっさと部屋から出ていってしまった。
そうして入れ代わりに執事が現れ、打って変わって優しい声で言ってくる。
「どちらか、ご希望の場所はございますか?」
 向かう先があるかと聞かれて、そんなところあるわけない。だから首を一回左右に振って、ゆっくりその場で立ち上がった。
その後すぐに車に乗せられ、執事の運転でさらに郊外へ連れていかれる。二時間ほど走って小さな駅前で降ろされて、執事はご丁寧に駅のホームにまでついてきた。
 遠くに行くのを見届けろと、きっと言われているのだろう。智子がホームのベンチに腰掛けると、執事はそこで初めて笑顔を見せて、小さな封筒を彼女に向けて差し出した。智子がそれを受け取ると、彼は深々と頭を下げて、無言のままそのホームから立ち去った。
 封筒の中を覗き込むと、汚れひとつない百円札が入っている。抜き出して数えれば十枚もあって、ハガキ一枚が五銭で買えるんだからそれはもう大金だ。
 智子は最初、今回のことは母親の独断だと思っていたのだ。プロポーズしたと彼から聞いて、帰宅する前に追い出してしまおうと考えた。ところがこんなものが出てくるからには、彼も反対を受け入れたのかもしれない。
ただ、そうであればそれでいいのだ。どちらにしても結果は同じ。
 ある意味これは智子にとって、都合のいい結末だったと言えるだろう。
 ――〝勇蔵〟さん、ありがとう。
 何がどうあれ、彼のおかげでこの時代に慣れることができた。彼の家でのふた月がなければ、一人で生きていこうなどと思えなかったに違いない。
 彼ならきっと、わたしなんかより相応しい女性に――もちろんそれは、年齢的なところが大きいのだが――巡り会えるに決まっている。と、心の底からそう思って、〝勇蔵〟への感謝を心の中で呟いた。
 そしてこれからは、〝桐島家〟での経験を頼りに、たった一人で生きていかねばならない。さらにどうして、自分は記憶を失くし、あんなところに倒れていたのか?
 ――きっとあの場所で、わたしに何かあったんだわ!
 智子は強くそう思って、ホームのベンチから勢いよく立ち上がった。
 ――やっぱり、東京に戻ろう。
 そう決心すると同時に、彼の母親の顔が脳裏にくっきり浮かび上がる。
 ――結局、〝勇蔵〟さんに会わなければ、それでいいんでしょ?
 万一会ってしまっても、智子には話したいことなんて一切ない。
 ――なんなら、走って逃げちゃえばいいのよ。
 智子はさっさとそう決めて、急ぎ足で反対側のホーム目指して歩き出した。
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