第4章  1963年 - すべての始まり 〜 4 二人の苦しみ(3)

文字数 1,584文字

               4 二人の苦しみ(3)


「うちの息子もね、きっと明日くらいには無罪放免ってやつですよ。だから今日のところは、遠慮なく泊まってってください。同じ事件でこうなるなんて、ホント、他人事じゃねえし……」
 きっとろくに寝ていないのだ。あっという間に酔っ払った正一が、突然そんなことを言ってきた。そしてさらに、疲れ切った顔をして、四十にもならない恵子も夫の言葉を受けて言う。
「そうですよ、どうぞ、どうぞ、汚いところですけど、遠慮なさらずに……」
 そうして彼は、昭和三十八年での最初の夜を、育った家で迎えることになった。
 正一の寝間着を借りて、懐かしい自分の部屋で横になる。すると記憶通りに正一のイビキが筒抜けだったが、以前とは違ってまるで腹など立たないのだ。
 剛志はその夜、恵子が酒を口にするのを初めて目にした。
 小さなコップに冷や酒半分程度だが、それだけで恵子はすぐに真っ赤になった。彼女は後半ずっと涙目で、酔っ払った正一の話にただただ耳を傾けていた。一方、正一の方も酔いつぶれる寸前に、「くそっ、くそっ」と呟きながら、今にも泣き出しそうな顔をした。
 普通なら、決して出くわすことない光景だ。
 当然、心配しているとは思っていたし、恵子には早く無罪なんだと伝えたかった。
 ところが実際、まさかこんなにまでとは思っていない。あの頃、自分のことだけで精一杯で、両親の気持ちを思いやる余力を持ち合わせていなかった。
 さらにそんなところは、大人になった今だって同じようなものなのだ。
 明日の晩、釈放されたと知るまで続く二人の苦しみを、彼はこれまで考えてもみなかった。
 三日目となる夕暮れ時、釈放されて警察署を出ると、恵子が神妙な顔で出迎えてくれた。
 照れ臭そうに歩み寄ると、「よかったね!」と声にしてから優しい笑顔を見せたのだ。それから二人は肩を並べて、長い道のりをほとんど喋らないまま歩き続けた。
 そうして店の前に立った時、恵子がやっと口を開いて、剛志に向かって言ったのだ。
「ちゃんと、父ちゃんにただいまって言うんだよ」
 それだけ言って、彼女は店の引き戸をゆっくり開ける。すると宵の口だというのに、店内は知った顔でいっぱいだ。みんながみんな嬉しそうで、口々に釈放を祝って大きな声をかけてくる。
 ところがだった。正一は一向に剛志の方に近寄ってこない。
なぜか一番奥のテーブルで、見知らぬ男と話し込んだままだ。だから剛志の方から近づいて、言い付け通りにちゃんと言った。
「ただいま、帰りました」
 すると正一はチラッとだけ視線を向けて、「おお、おかえり!」とだけ言って返す。
その後すぐにご近所さんらに囲まれて、半ば無理やり剛志はビールを飲まされるのだ。その夜がそんなだったから、正一がここまで心配しているなんて思わないまま生きてきた。
 ――本当に、申し訳ない……。
 そう歳の離れていない両親へ、剛志は心の底から初めて詫びる。そしてここにいる間くらい、せいぜい両親に優しくしようと心に誓った。
 そうして翌日の朝、用意してもらった朝食を済ませて恵子に深々頭を下げた。
「ご主人が起きていらしたら、ありがとうございましたとお伝えください。それから、今日はお店を開けるとおっしゃっていたんで、お礼も兼ねて、今夜お店の方に顔を出すつもりです。それから、息子さんのことですが、きっと近いうちに無罪が証明されて、晴れて釈放ってことになりますよ、絶対、そうなりますから……」
 だから気を落とさないでと言いながら、心では何度も今夜釈放されるからと声にする。
 ただ、そう言ったところで安心などしないだろうし、実際に釈放されれば妙な勘ぐりだってされかねない。だからそのくらいの言葉だけ告げて、また夕方顔を出そうと剛志は決める。それからすぐに児玉亭を後にして、バスに乗り込み二子玉川へ向かった。
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