第2章 1983年 – 始まりから20年後......3 助け舟(3) 

文字数 1,765文字

               3 助け舟(3)


 昔、それがいったいどのくらい前なのかは不明だが、とにかくその頃、正一に世話になったという資産家――その時点で資産家だったかはわからない――がいた。
 そんな大金持ちが、正一の死を偶然知って恩返しをしようと思いつく。と同時に、あまり大袈裟にしてしまえば、かえって受け入れにくいだろうとも考えた。
「わたしがそうご提案したんです。ご子息の学費くらいなら、きっと奥様も、素直に受け取ってくださいますよ、とね……」
 長身の弁護士がそんなふうに説明し、剛志の学費一切を面倒みたいと言ってきた。
「それって、なんていう人なんだよ?」
「それがね、匿名だって言うのよ。まあ、本当にありがたいハナシなんだけどね……ホント、あの人も言っていたけど、学費だけだって気味が悪いわよねえ、どこの誰だかわからないなんて」
「親父が昔世話したって、いったい何したんだろう? まさか、それも聞いてないの?」
「だって、聞いても教えてくれないんだもの。でもね、あの人んちはけっこう裕福で、ああ見えて、お父さん頭よかったから、あの時代で中学まで出てるのよ。その後、本当なら旧制高校に進むはずだったのに、勝手に料亭で働き始めちゃってね、そんなんで親からもすぐ勘当よ。だからきっとね、その頃から終戦までの、十年くらいだと思うのよ。終戦後すぐ、あの人はわたしと一緒になって、その翌年にはあんたが生まれてさ、もうその頃には、他人様の世話どころじゃなくなってるんだから……」
 もしも結婚後、誰かに恩を売るようなことがあれば、きっと自分だって知っているはずと恵子は言った。となれば、尋常小学校時代のことなのか? しかしそんな大昔のことを、弁護士まで寄越してわざわざ言ってくるだろうか?
 何から何まで謎だらけだったが、約束通り翌月の一日、弁護士事務所から現金書留が送られてくる。その中には、剛志がもう二つくらい私立高校に通っても、お釣りが出るくらいの現金がしっかり収められていた。
 それからというもの、剛志は生まれ変わったように机に向かった。
具体的なことは知らずとも、正一のおかげで変わらず学校に通えている。
 一方で、一流高校に通っていた智子は依然行方不明のままなのだ。
 剛志だって正直言えば、もはや智子が生きているとは思ってない。ただ、だからこそ、今という時間をちゃんと生きたいと思うようになっていた。
 ――俺はあいつの分まで、一生懸命生きるんだ!
 不思議なくらい素直にそう思え、彼は一流と言われる大学目指して猛勉強を始める。そうして有名大学に受かったという噂は、まるで空気感染するかのようにあっという間にご近所中にも広まった。
「恵子さん! こりゃ地震と雷がいっぺんに来るぜ!」
「そうだよ! こうなりゃこの店の酒、ぜんぶ飲み干してから死ぬっきゃないね」
 いつも通りのアブさんの毒舌、そんな声に、エビちゃんがそれ以上の大声で応えていた。
 その夜の児玉亭はいつも以上に盛り上がって、
 ――まったく、なんだかんだ言って、ただ呑みたいだけなんだよな……。
 なんて思っていたのを、剛志は今でも不思議なくらいに覚えていた。
 その後も匿名の送金のおかげで、金銭的な苦労一切なしに大学を卒業。剛志は迷うことなく、智子の夢だったファッション業界の道に進んだ。
すると同時に、現金書留がピタッと送られてこなくなる。そうなって初めて、剛志は今さらながらに思うのだった。
 ――こうなってしまえば、もう匿名だなんて言ってはこないさ……。
 そんな思いとともに、彼はしまい込んでいた名刺を引っ張り出した。そしてわざわざ電話ボックスまで走って行って、ドキドキしながら名刺の番号に電話をかける。
 ところが、どこにも繋がらなかった。
 ――なんで? だって……ちゃんと名刺の住所から届いてたじゃないか……?
 現金書留には間違いなく、毎回名刺の住所が書かれてあった。
 それに手にある名刺も五年前、確かに母親の病室で受け取ったものだ。
 ――じゃあ、俺が番号を間違えたのか?
 そう考えて、彼が何度ダイヤルしても、受話器からは聞き慣れた声だけが響くのだった。
「おかけになった電話番号は、現在、使われておりません……」
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