第7章  2013年 プラス50 – 始まりから50年後 1 平成二十五年(8)

文字数 974文字

                1 平成二十五年(8)


 ある夜、ふと目が覚めて隣を見ると、また節子の姿がどこにもない。
最近は万一のために間接照明は消さないから、寝室に誰もいないことは間違いなかった。慌ててベッドから飛び下りようとすると、それを制するように突然声が響き渡った。
 ――あんたはだれだ。
 きっとそんな感じだろうが、剛志には叫び声としか聞こえない。
しかし続いた掠れた声で、やはりそうなんだろうと知ることができた。
「すぐに、ここから出てってよ、じゃないと殺す、わよ……」
 一転して静かな口調だが、その顔は真剣そのものだ。さらにその言葉が嘘でないのは、固く握られている刺身包丁によってどうしたってわかる。
 節子が、開け放たれた扉の向こうに立っていた。
 ――俺を忘れてしまった?
 疑念、驚きを抑え込み、できるだけ普通に「節子、どうしたんだよ」と剛志は言った。
 ところがまるでうまくないのだ。
「節子って誰よ! あんたは何者?」
 ――自分の名前も、忘れちまったか?
 衝撃だった。
いずれこんな日が、とは覚悟していた。
それでもまさかこんなに早く? さらに自分の名前まで忘れるなんて、まるで予想していなかったことなのだ。
 ――直近のことから忘れていきます。そして少しずつ、昔のことも忘れていって……。
 こんな医者の言葉は嘘だったのか!?
 腹立たしさを思った途端、こめかみ辺りが「ジン」と鳴った。いかん! と思った時には顔の中心がカアッとなって、いきなり視界が揺らぎ始める。
 何か、言わなければ……と焦れば焦るほど、涙が溢れ出て止まらない。
 それでも、剛志は目を開けていた。頼む、頼むと念じながら、必死に節子を見つめ続けた。
 智子を二度も失った。十六歳で失って、三十六でも智子はマシンとともに消え去った。それから彼女の死を知って、実際剛志は三度も智子を失っている。
 ――なのにまた、節子もいなくなってしまうのか……?
 ――頼むから、そんなことしないでくれ!
 剛志は誰かに向けて必死に祈り、ただただ節子を心に思った。
そうするうちに、節子も何かを感じたのか? 顔の強張りがフッと解け、不安そうな印象だけがその顔に残った。
 すかさず無理やり笑顔を作り、剛志はこぼれる涙を必死に拭き取る。
 ――僕は何もしないよ。だから、安心して……。
 そんな印象を全身全霊で訴えた。
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