終章  2017年 – 始まりから54年後 〜 平成二十九年三月十日(5)

文字数 684文字

 平成二十九年三月十日(5)



 そうしてすぐに、彼女の口元に己の耳を寄せていく。
 すると智子の唇が微かに動き、震えるような吐息が何度か漏れた。男はそれで理解したらしく、「じゃあ」とだけ言って、再びテラスへ戻っていった。
 それから五分ほどして、マシンは跡形もなく消え去っている。
 テラスには、智子がリクライニング式の車椅子に乗せられ、隣には剛志の姿がぴったり寄り添うようにある。
 ――もっても一時間です。きっと三十分を過ぎた頃には、意識が朦朧としてくるでしょう。
 連続する薬の投与は、通常の半分くらいの効力しかない。男は最後にそんなことを智子に告げて、マシンとともに消え去っていた。
 そしてそんな時間も、残り僅かという頃だ。
 ――最期に彼の顔が、近くで見たい。
 そう思い立ってから、早くも二十数分が過ぎ去っていた。
 呼吸しづらい感じがして、全身の節々が徐々にキリキリと痛み出す。
 それでも智子は剛志の胸に顔をのせ、必死になって上半身を上へ上へと動かした。
 そうしてあと少し、あとちょっとだったのだ。
 ――剛志……。
 心にそう思った時、すでに身体は微動だにしない。
 なんとか意識はまだあって、ただそれも、あともう少しで消え去るだろう。
 それでも、すぐ隣に剛志がいると知っていた。
頰には彼の感触があり、すでに何も見えない視線の先で、十六歳の剛志が智子を見つめて微笑んでいる。
 そんな彼の姿に向け、智子は心に思うのだ。

 ――あ、な、た……。
 ――あ、り、が、と、う……。

 そうして最後に、

「さようなら……」
 と、念じようとしたところで、

 スッと眠るように、その意識は閉じていた。
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