第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 6 火事(6)

文字数 1,489文字

 6 火事(6)
 

 ところが誰も電話に出ない。呼び出し音が虚しく響いて、智子は叩きつけるように受話器を置いた。するとひと呼吸もしたかどうかで、再びベル音が鳴り響くのだ。
 それは再びマネージャーからで、決定的な事実を智子に向けて告げてくる。
「言われた通り、浅川さんのご自宅に電話をかけました。ご家族は警察に行かれていていらっしゃいませんでしたが、ご近所の方がお留守番をなさっていまして、やはりあれは、浅川さんご本人だそうです。それでお通夜、告別式ともに、まだ何も決まっていないそうでして、一応決まり次第、お電話を頂けるようお願いしておきました……」
 この後も、彼女はいろいろ話していたが、そのほとんどを智子は覚えていなかった。気づけば電話は切れていて、プー、プーという音だけがつれなく響く。
 智子はそれから応接間に行き、放心状態のまま点けっ放しのテレビの前に居続けた。
 そう遠くない自宅に帰らず、被害者はなぜ旅館などに泊まったか? そこがどう報じられているか知りたかったが、取り上げている番組は見当たらない。同伴者の有無についても語られず、それは彼が新聞記者だからか、もしかしたら旅館の主人は、智子の存在を口にしないでいてくれたのか……?
 たったそれだけのことが、今この時、唯一の救いとなっていた。
 浮気相手といた旅館で死んでしまった。残された浅川の妻と子供が、彼の死をそう思い続けるなんて辛すぎる。しかしそれ以外のすべては、智子にとって最悪だってことに変わりない。
 もしもあの時、変な感情に流されず、まっすぐ食事に向かっていれば……?
 少なくとも、浅川があの旅館に泊まるなんてなかったはずだ。すべては智子のせいだし、自ら旅館に残ったからって、彼女の罪が一ミリだって減ることはない。
 浅川はあの部屋から逃げ出して、一階へと続く階段途中まで来ていたらしい。
 その瞬間、彼は何を思ったろうか? 智子と会ったことを後悔したか?
 それとも家族を思って死んだのか? 
 そして死ぬ間際には、炎はすぐそばまで迫っていたろうか?
 振り返れば火の海で、彼はもうダメだと諦めたのか?
 ついついそんなことばかりを考えて、目を瞑れば燃え盛る炎が浮かび上がった。
「ごめんな……さい」
 思わず声となったそんな言葉も、永遠に浅川の耳には届かない。
 ――さっさと結婚、しちゃえばよかったのよ!
 昨日の夜、やっとそんなふうに思えたのだった。
 あの頃の智子は、きっと浅川のことが好きだった。
 彼の結婚を知ってさらに、その妻のことを尋ねた時だ。
 ――わたしは彼の返事に、確かそんな感じを思ったんだ……。
 しかしすべては遅かった。
 ――記憶のことなんて……どうだってよかったじゃない!
 結局、八年経ったって何もわかっちゃいないのだ。
 もし、あの時一緒になっていれば、大金を手にはしていないが、少なくとも別の幸せはあっただろう。そして何より、火事で浅川が死んでしまうこともない。
 ――お願い……夢なら今すぐ、覚めてちょうだい……よ……。
 喉奥が震えて、吐き出す息に声が交じった。やがてそんなのは嗚咽に変わり、悶え苦しむような響きがしばらく続いた。
 それから智子は、泣きながら知らぬ間に眠ってしまう。
 そしてやっぱり、炎の夢を見て目が覚めるのだ。迫り来る火から逃げ出そうとするが、足がもつれて言うことを聞かない。
 そんな夢は妙に現実感を伴って、なぜか旅館の部屋などではぜんぜんなかった。
 ――それでも、わたしは昔……、
 夢の中で、ふとそう呟き目覚めると、すでに次の日の朝になっていた。
 ――こんな炎の中に……いたことがある。
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