第4章  1963年 - すべての始まり 〜 5 常連客と「おかえり」

文字数 1,256文字

              5 常連客と「おかえり」
   

「それじゃあ、わたしこれで、そろそろ失礼します」
 剛志がそう切り出したのは、まさに日が暮れかかろうというときだった。太陽が西の空に沈みかかって、それでも東方向には青空がしっかり見えている頃だ。
彼は五時ぴったりに児玉亭にやって来て、昨晩のお礼にと、スカーフやジョニ黒の入った袋を差し出した。
 二人は予想以上に驚いて、特に正一はジョニ黒を手に目を白黒させる。
「こりゃあたまげた。あんたって、本当はお金持ちだったんだねえ。だけどさ、これは受け取れねえよ。そうだな、かあちゃんのスカーフとまんじゅうの方は頂いとくけど、これはいい、これはいくらなんでも高すぎるよ。だから、あんたの気持ちだけ、有り難くもらっとくから……」
 正一はそう言って、手にしたばかりのジョニ黒をそのまま剛志に差し出した。
「あんた、紙袋に入れて差し上げないと、裸じゃおまわりさんに注意されちゃうわよ」
「おっとそうだな。おい、そっちの袋を旦那に差し上げてくれ」
 恵子に言われて、正一がテーブルに置かれた袋を指差した時だ。いきなり店の扉がガラガラっと開いて、アブさんがニョキッと顔を出した。
「よかったな! やっと剛志、釈放されるんだって? っていうか遅すぎるよなあ! だいたいあいつがさ、人殺しなんてするはずがないんだからよ」
 顔を見せるなりそう言って、
「今日は酒もツマミも、みんなで持ち寄ってやろうってさ、この辺りの連中に言いまくったからよ、だから店なんかさっさと閉めて、剛志の釈放祝いをパアッと盛大にやっちまおうぜ!」
 そう続けた時にはすでに、持ち込んだ一升瓶から酒をコップに注いでいる。アブさんの後ろにはエビちゃんやスーさんもいて、店はそれからあっという間に満員となった。
結果、テーブル周りには立ち飲みまで出る始末。皆が皆、剛志が釈放されると聞いてやって来たご近所さんばかりだった。
ただ唯一、店奥の二人掛けテーブルだけが例外だ。
見知らぬ男が座っているせいで、そこには誰も近寄ろうとしない。
もちろん男とは三十六歳の剛志のことで、彼だけが一人静かに飲んでいるのだ。
「なんかよ、派出所のオヤジが触れ回ってたらしいぜ。剛志が今夜釈放されるって。あれ? ここには連絡ないのかい? おかしいな……ガセってこたあないと思うけどなあ」
 聞いていないという正一に、アブさんが少しだけ不安な顔を見せた時だ。いきなり黒電話が鳴り響いて、厨房にいた恵子が慌てて駆け寄り受話器を取った。
 いつも通り「毎度ありがとうございます」と告げてから、続いて店名を口にしたところでだ。恵子の顔が一瞬固まる。みるみるその目に涙が溜まり、
「ありがとうございます。はい、はい、ありがとうございます……」
 何度もそう繰り返し、恵子はそのたびに頭を下げた。
それは剛志の釈放を知らせる電話で、恵子は受話器を置くなりレジに近寄り、そこから千円札を何枚か抜き取る。それから「迎えに行ってくる」とだけ告げて、前掛けも取らずに剛志を迎えに出ていった。
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