第5章 1973年 - 始まりから10年後 〜 1 覚醒、そして再会(2)

文字数 1,398文字

               1 覚醒、そして再会(2)


「九年間……って……?」
「もう、昭和四十八年なんですよ。まあ驚かれるのも無理はない。今やアポロ11号が月に行っちゃう時代ですから……」
 そう静かに告げて、男は剛志の反応をうかがうように押し黙る。そうして、穏やかなままの彼に安心したのか、そこから一気に声のトーンが明るくなった。
「大阪で、万国博覧会があったんですよ。札幌オリンピックも去年開催されて、七十メートル級ジャンプでは、日の丸飛行隊が表彰台を独占したり、とにかくいろんなことがあったんです。この九年間で、日本もずいぶん変わりましたよ」
 そこで一旦言葉を止めて、呆気にとられている剛志を満足そうに彼は見つめた。
 それからさらに笑顔になって、
「そうそう、最近じゃ若い子の間で、ホットパンツなんてのが流行ってましてね、もし名井さんが目にしたら、きっと卒倒しちゃうんじゃないかなあ。まあとにかく、この九年間のことは、おいおい、少しずつ知っていけばいいんです。大丈夫ですよ、身体の方だって、すぐに元通りに、ちゃんと動くようになりますからね」
 そう言って力強く頷いたのは、まだ青年と呼べるような若々しい医者だった。
それでも彼の言うことすべてが記憶にあって、長い年月が経ったというのは、掌を見るだけで理解できた。
 まるで、年寄りの手のようなのだ。体重が落ちたせいだろう。手の甲にも細かなシワがたくさんあって、青黒い血管が蟻の巣のように浮き上がって見える。
 あの日、児玉亭へ向かおうとした剛志は、アパートを出たところでダンプカーに撥ねられた。
 幸い大したスピードは出ておらず、さらに運転手がとっさにハンドルを切ったおかげで、ダンプとの正面激突だけは免れていた。
 それでも衝撃は凄まじい。運転手によって救急車が呼ばれ、彼はすぐ近くの救急病院に搬送される。そこでひと通りの治療を受けてから、今の病院に転院してきたらしいのだ。
 それからの九年近く、彼はずっと目覚めぬままここにいた。
 ただここ数週間、指先が微かに動いたり、気づけば薄眼を開けていたりなんてことが起きるようになる。今日という日もそんな感じで、看護婦が慌てて医師を呼んだのだ。
 ところがたまたま呼ばれた医師の方は、
 ――目覚めるわけがないだろう?
 心ではそんな感じを思ってる。
 ――ちょっと動いたくらいで、いちいち俺たちを呼ばないでくれよ。
 それでも呼ばれてしまえば仕方がない。だからいつも通りに彼の名前を呼びかけた。
 するといきなり唇が動き、吐息に声らしい感じが混ざった気がする。
 ――今、くそって言ったのか? まさかこいつ、本当に目が覚めるのか?
 そんな驚きに、彼は慌てて顔を寄せた。すると瞼が震えるように細かく動き、彼は再び剛志に向かって声をかける。それからすぐに後ろを向いて、見守っていた看護婦へも大声を出した。
「ゆっくり、ゆっくり開けてください! おい! 窓のカーテンを閉めてくれ!」
 男の声が再び響き、カーテンの閉まる音が続いて聞こえた。
その後すぐに、目の辺りに掌か何かが添えられる。光を遮ろうとしたのだろうが、それでも目を開けた瞬間は、あまりの眩しさに、目の奥が破裂したような痛みがあった。
 それから彼は、数時間にわたって様々な検査を受ける。そうして元いた病室に戻ってやっと、剛志はたどたどしくもなんとか話せるくらいになっていた。
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