第1章 1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり......5

文字数 3,644文字

           5 昭和三十八年 三月九日 火事


 ――からかわれた……見事に騙されちゃった……。
 思い出せば出すほど悔しくなる。
 智子はもう一週間以上、伊藤のところに顔を出していなかった。
 二度ほど、惣菜を持っていくよう頼まれそうになったが、期末試験中だったからなんとか行かずに済んでいた。しかし試験も昨日で終わり。そして今日という日が勇蔵が家にいる土曜日とくれば、伊藤を夕食に呼びつけるか、何か持っていけと言ってくるに決まっていた。
 だから今日、佐智が頼んできたらもう断れない。となれば、あとは勢いよくアパートに乗り込んで、あんなことを言った真意を確かめるだけだ。
 ――どうして、中止になるなんて嘘をついたのか、ちゃんと説明してもらうんだ!
 そう心に誓う智子の脳裏に、あの晩、勇蔵から言われた言葉が今さらながら蘇る。
「おいおい、何を言ってるんだ? 戦争中でもあるまいし、来年にまで迫ったオリンピックを、今さら中止にするはずないだろう? 七月に中止が決定? 誰がそんなこと言ったんだ? だいたい、新聞にだって出ていないそんな話を、どうして高校生が知っている? きっと、そいつは夢でも見たんだろうな……まあなんにしても、今さら中止になんてするはずないから、そんなことを言った友達に教えてあげなさい」
 その後の勇蔵の大笑いが、今でも強烈に智子の耳に残っている。
 誰に聞いたんだ? そう聞いてくる勇蔵の顔があまりに渋く、智子は適当な同級生の名を口にしてしまったのだ。
だがもし、伊藤からだと話していたら、勇蔵はどんな言い方で返したろうか? ただどっちにしろ、今になって思えばだ。ちょっとでも信用した自分が大バカだったと思うしかない。
 ――何が絶対に秘密よ! 百年先のオリンピックが、いったいなんだって言うの!
 そうして予想した通り、その日の夕方惣菜を手にして佐智が部屋を訪れる。智子は黙って容器の入った包みを受け取り、母親を置き去りにしてさっさと自分の部屋を出た。それから玄関へ向かう途中、オーバーコートを着ていこうかとちょっとだけ悩む。
慌てて窓の外に目をやるが、降っていた雪は雨になって、厚手のセーターだけで大丈夫だろうと思ってしまう。だから玄関にあったマフラーを巻き、勇蔵の大きい傘を手にして伊藤のところへさっさと向かった。
 もしもこの時、雨の冷たさを予感できれば、彼女の人生はきっと違っていただろう。ところがコートも羽織らずで、そのせいで運命の瞬間に出会ってしまった。
 ――寒い! やっぱり、コート着てくればよかった!
 家を出てすぐそう思ったが、智子は取りには戻らない。
その代わりにだ。風呂敷包みをギュッと抱えて、そこから一気に走り出すのだ。そうして普段よりずいぶん早く、急坂の天辺に差しかかってしまう。
 このまま坂を下り切ってしまえば、伊藤のアパートは目と鼻の先。ところがその時、いきなり目に飛び込んでくる。急坂から人影が飛び出して、驚いて立ち止まった智子の前を駆け抜けた。
 目を向ければ、どう見たって伊藤博志の後ろ姿だ。急坂を駆け上がったせいだろう。みるみるスピードが落ちていき、終いには膝に両手をついて立ち止まってしまう。
 しかしよほどの急用なのか、彼はすぐに顔を上げ、ほんの数秒で再びヨタヨタと走り出した。
 ――こんな日に、傘も差さずにどこ行くの?
 ふと、そう思った時だ。伊藤が走って行く先に、いつもと違う景色が目に飛び込んでくる。
 日の暮れかかる西の空に、赤々とした光が天に向かって伸びていた。
火事? そう思えたのは、赤いのは煙で、炎に反射していると気がついたからだ。
地上に近いところが赤々染まって、色を捨て去りながらゆらゆら天へ上がっていく。そして赤く染まっているのは、まさしくあの林のある方角なのだ。
「つまりな……あいつはあの林に、ヤバいもん隠してやがるに違いないぜ!」と、アブさんがしたり顔で話していたあの林を、伊藤は今まさに目指しているに違いなかった。
 ――あの話はやっぱり、本当だったってことなの?
 だからあの時、急にあんな噓っぱちを言い出したのか? 
そんな思いが頭の中でグルグル回って、気づけば智子は伊藤の後を追っていた。
そして林にあと少しというところで、伊藤が急に進路を変える。このまま進めば林を突っ切る一本道なのに、その手前をなぜか左に折れてしまった。さらに驚くことに、伊藤は唐突に立ち止まると、見知らぬ民家の塀を上り始める。
 ――え!? ちょっとそれって、不法侵入じゃないのよ!
 そんな心の声は伊藤に届くはずもない。だからさっさと塀を乗り越え、彼はあっという間に視線の先から消え去ってしまった。
 その時とっさに、智子の方は塀を乗り越えるのを諦める。
彼の身長だからこその不法侵入で、彼女にとっては難攻不落そのものなのだ。だからそのまま壁伝いに走って、門の前まで来て立ち止まる。
 ――チャイムを鳴らす?
 ――で、いったいどう伝えればいい?
 きっと説明なんかしている間に、彼はどこかへ消え去ってしまう。そう思った次の瞬間、智子は門を開けていた。他人の家に入り込み、塀の内側を必死に走った。いつ呼び止められるかとヒヤヒヤしたが、伊藤が降り立った辺りにあっという間に到着する。
 ――やっぱり、そうなんだ……。
 そこから伊藤の姿に目を向けて、彼の目指す先をはっきり知った。
 そこはとにかくだだっ広い庭で、五十メートルはあろうかという前方に、ヨタヨタと走る伊藤の姿がまだあった。彼の向かう先にも同じような塀が張り巡らされ、その上からあの林であろう木々が伸びていた。そんな一瞬の認知の後、智子は再び走り始める。
 ちょっと待ってよ! 何度も心でそう叫び、庭の真ん中を必死になって追いかけた。
そうして奥の塀に到着した時、伊藤はすでに塀の向こう側に飛び下りた後だった。
 さらにそこからが大問題。どう頑張ったって塀の天辺には上れない。どこかに脚立なんかが置かれてないか? そう思って見回すと、すぐに使えそうなものが目に飛び込んだ。木製の丸テーブルと頑丈そうな幾つかの椅子で、芝の上になんとも無造作に放り置かれている。
 ――すみません! ちょっとお借りします!
 家人に向かってそう念じ、智子は丸テーブルを塀のそばまで引きずった。
 水を吸ったテーブルは氷のようで、さらに想像以上に重いのだ。指先の感覚があっという間になくなる。それでも必死に塀にぴったり押しつけて、智子はその上に乗っかった。
 悪戦苦闘の末、なんとか塀の向こう側へ降り立つことができる。セーターは汚れ、手にある風呂敷包みも解けてしまった。包んでいた容器がどこにもなくて、きっと今も、塀の向こう側に転がっているのだろう。
 それでも取りに戻ろうなんて思わない。もちろん思ったところでどうしようもないが、そんなことより大事なことが今の智子には他にある。
 今、目の前には林が広がっていて、道らしき一本の筋が林の奥へと続いている。
 小さい頃から知っていた林だが、実は思っていた以上に奥が深く、建ち並ぶ家々の裏側にまで続いていたらしい。
そしてもし、今が真夏だったなら、足を踏み入れることに相当躊躇しただろう。
しかしこの時期、落ち葉のおかげで見通しがよく、大嫌いな虫たちだって眠りこけているはずだ。だから智子は迷うことなく林の奥へと進んでいった。微かに焦げたニオイはするものの、まるで火事だなんて感じられない。ところが霧雨の中を進むうち、時折ムッとする熱気を感じるようになった。さらに進むと、あるところでいきなり周りの空気が変化する。
 見回せば、遠くが赤く染まって、辺りがうっすら霞んで見えた。
 ――こんな日に、どうして燃えたりしたんだろう?
 そんな疑問とほぼ同時、降って湧いたように恐怖心が湧き上がる。このまま進んで大丈夫だろうか? そう思った次の瞬間、木々の間、右方向で何かが動いた。
 ――伊藤さん?
 そう思って目を向けると、太い木々の奥の方に広場のような空間が見える。
 智子はそこで初めて道から外れ、先にある空間目指して木々の間に入り込んだ。
 すると二、三メートル進んだだけで、一気に前方がひらけてくれる。まさに空き地というべき空間が、いきなり目の前に現れたのだ。
 そこだけ草が生えておらず、そんなのを取り囲むように太い木々が連なっている。
 そしてその中心に、なんと伊藤が立っていた。さっきまでの慌てた様子は消え失せて、智子に背を向け、ジッとしたまま動かない。
「あ、伊藤さん!」と叫ぼうとして、智子は思わず足を二、三歩踏み出した。
 ところが靴底がツルっと滑って、後ろへひっくり返りながらの声となる。
 それでもやっぱり、「伊藤さん!」と呼べたのか?
 はたまた、意味不明の叫びに過ぎなかったか?
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