第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 5 浅川隆文

文字数 1,942文字

               5 浅川隆文


 昭和二十三年六月二十七日、この日は偶然、智子の誕生日前日だった。
もしもそうでなかったならば、彼の未来はまるで違ったものになっただろう。
 男の名前は浅川隆文。彼はこの半年間、さほど頻繁ではないが、それでも足繁く智子のもとに通っていた。新聞社に入社して六年ということだから、それほどの給料ではないだろうに、そう間を空けずにいつも夜遅くなってから現れた。
 実際、二度や三度続く客なら珍しくない。しかしこうまで通い続けるのは浅川くらいで、酒臭い息をプンプンさせて近づいてくる男たちとは大違い。いつも素面で現れ、素面のまま名残惜しそうに帰っていく。
 ――まさか、わたしのことが好きだったりして……。
 商売オンナにそれはない? ……などと思いながらも、そんな可能性にドキドキしていた頃だった。
 いつもよりずいぶん早く現れ、浅川がいきなり智子に向かって告げたのだ。
「夕食、まだでしょ? 今日は食事に付き合ってもらおうと思ってさ、夕方から、ずっとあなたをここで待ってたんだ」
 いつも智子が立っている道路の反対側で、浅川は二時間も前から立ちっぱなしでいたらしい。
「お金は、いつもと同じだけ払うよ。もちろん食事代もこっち持ち、だから、いいだろ?」
 そんなことを言われて、断る理由なんてどこにもない。
 だから智子は気楽に彼の後についていった。ところが、行き着いたところは戦前からある立派なホテルだ。その一階にあるレストランに、彼はさっさと入ってしまった。
 ――何よ、そこら辺の露店で食べるんじゃないの?
 せいぜい、蒸かし芋でも買って食べるくらいに思っていたのに、よりにもよって戦後の日本における最上級のレストランだ。入り口に立っているだけで、店の客からジッとこっちを見られている……そんな気がして、途端に自分の化粧や派手な格好が恥ずかしくなった。
 ところが浅川は、すでに店内のテーブル前に立っている。
 さらに「早く、早く」と、大げさに手まで振ってみせるのだ。
 どうせ、知っている人なんていやしない。
 それにこんなところで食事をするのは、今ある記憶では初めてのことだった。
 ――何かあったって、悪いのはわたしじゃない。連れて来た、彼の方なんだから……。
 そう思えてやっと、智子は浅川の待つテーブルへ足を向けた。そしていざ食事が始まってしまえば、すぐに周りの目など気にならなくなった。普段の粗食のせいなのか、なんてことのないカレーライスがトンデモなく美味しい。
 ――カレーって、こんなに美味しいものだった?
 なんて思いつつ、しばらくすべての神経が口の中だけに集中する。そうして智子の皿が空っぽになりかけた頃、浅川があからさまに姿勢を正した。苦しそうに咳払いを一回して、いきなり大真面目な声を出したのだった。
「実はあした朝一番で、実家のある福井へ行こうと思ってる。だから、もしよかったらだけど、一緒に来て、もらえないだろうか?」
 そう言って、彼は真剣な顔を崩さないまま、智子の顔をじっと見つめた。
 一緒にとは、単なる旅行への誘いだろうか?
 はたまたもっと、深い意味があったりするのか?
 一瞬そんなふうにも考えたが、深い意味など今の自分に向けられるはずがない。すぐにそう思い直して、智子はおどけた感じで言って返した。
「それって、まさか結婚してって言ってるの?」
 違うって、そんなんじゃないよ――と、きっと慌ててそんな応えが返ってくる。そう思っていたところに、彼の返事はまるで違って響き返った。
「そうだ。僕と、結婚してほしい」
「……子供が、いるのよ」
「知ってるさ、だから結婚して、これからは二人で育てよう」
 自分が今、ナニ言ってるかわかってる? 思わずそう言いかけて、智子はなんとか口にせぬままそんな言葉を呑み込んだ。
「あたしがいったい、何人の男に抱かれたと思ってるの?」
「だから、今日を限りに今の仕事はやめてほしい。それで、そんなのすべて忘れ去って、僕についてきてほしいんだ……」
 彼はさらにそう続け、智子に向かって頭を下げた。
 もしも浅川と一緒になれば、きっと普通の幸せをつかむことはできる。しかしそうなればどうしたって、あの不思議な記憶については忘れ去るしかないだろう。
 それにあの日……、必死に働いて、友子と幸せになると誓ったことも、
 ――自分の力でやり遂げなきゃ、意味ないわ……。
 などと無理やり思って、浅川の申し出を断ろうと智子は決めた。
 ところがやんわり断っても、浅川はなかなか諦めない。どうしてだ? 他に好きな男でもいるのかと聞いて、そんな人いないと答えれば、ならばどうしてなんだと食い下がる。
 きっと智子がすぐにでも、首を縦に振るだろうと思っていたのだ。
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