第4章  1963年 - すべての始まり 〜 8 智子の両親(7)

文字数 1,644文字

                8 智子の両親(7)


 終戦、間もない頃だった。
 桐島勇蔵は二十八歳。彼には心密かに、結婚したいと願う女性がいたのだった。
 それは住み込みで働く女中で、身寄りもなく、年もずいぶん若かったらしい。当然のように母親は猛反対で、勇蔵の知らぬ間に女性は他所へやられてしまう。
 仕事から帰ってその事実を知った彼は、その日から必死になって愛する女性を捜し回った。
 しかしなんと言っても昔の話で、さらに国中が大混乱という時だ。とうとう女性を見つけることは叶わず、失意のうちに母親の勧める藤間家の長女、佐智と結婚する。
 ところがそんな結婚から数年後、勇蔵は妻から驚きの告白をされるのだ。
「子供がな、できない身体だって言うんだよ。理由なんかは知らないが、ただ申し訳ない、離縁してくれって言ってな、くしゃくしゃな顔してわんわん泣くんだ。どうして急に、そんなことを言い出したのか、わしにはわからん。ただもしかしたら、わしが薄々そんなことを悟っていて、そのせいで冷たい態度を取っていたと、あいつは勘違いしたのかもしれん、な……」
 そこで勇蔵は言葉を止めて、遠くを見るような目つきを見せた。
 そうして再び剛志の方を見た顔は、ほんの少しの笑みさえ浮かぶ。
「ただな、それを聞いてわしは、逆にやっと、あいつと本当の夫婦になれるって思ったんだ。心の底では、母親にざまあみろと思いながらな。孫の顔は、一生涯拝めないぞって、笑い出しそうになって困ったくらいだったさ。ま、わしが弁護士になったのも、そんな母親の言いつけでね、あの人は姑が死んだ後は特にひどくて、何から何まで自分の思い通りになると、きっと本気で思っていたよ……」
 ところが妻からの告白で、母親の思い通りになりようもない現実を知った。
「まあ、それからだな……あいつにやっと、優しくできるようになった。きっとそれで、あいつも思っていたことを、わしに言い出せるようになったんだろう。それからしばらくして、また今度もいきなりだったよ。子供を育てたい、だから養子を取ろうと言い出してな。しかしあまりに突然だったし、他人の子供を育てるなんて、当たり前だが考えてもいなかったから、当然、わたしはすぐに断った……」
 ところがなかなか引き下がらない。
 一生のお願いだ、訪ねてみるだけでいいと泣きつかれ、勇蔵は結局、佐智の告げる孤児院まで付き合うことになったのだ。
「養子を取るつもりなんてさらさらなかったし、どうせ戦災孤児だらけの孤児院だ。ダニだらけシラミだらけで、近寄るだけで臭うようなのばかりだろうし、あいつだって、そんな現実を目の当たりにすれば、すぐに諦めるだろうくらいに思ってたよ。ところがだ。なんだろうかなあ……きっとこんなのが、運命とかっていうことなのかもしれんが、一目見て、この子だって思ったんだ。不思議なくらい、わしの心がざわついて、気がついたら、知らぬ間にその女の子を抱き上げていたよ、この、わたし自身でだ……」
 そんな勇蔵と同様に、その二歳になる女の子が佐智にも光り輝いて映ったらしい。
それからすぐに、二人はその子と養子縁組を結んだ。当然、勇蔵の母親は大騒ぎだ。約束が違う、子供ができないなんて聞いていないと、佐智の実家、藤間家へ怒鳴り込む寸前だった。
 しかしすんでのところで実行には至らない。それは勇蔵による〝宣言〟によってだったが、女の子の天使のような可愛らしさも、少なからず影響していたように思われた。
「あれだぞ、智子が一緒に住むようになってな、結局、一番嬉しそうだったのが母自身だったよ。もちろん最初の一週間くらいは、自分からは決して近寄ろうとはしなかった。しかしな、すぐにそんな抱き方はダメだとか、まあいろいろと言ってくるようになってな、それから、亡くなる寸前までずっと、何かと言えば智子、智子だ。最期の最期には、取り囲んだ親戚たちには目もくれず、うっすら目に涙を浮かべてな、佐智に向かって、ありがとうって、言ったんだ……」



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