第2章 1983年 – 始まりから20年後......2 二十年前(3) 

文字数 3,552文字

               2 二十年前(3)


 彼らと違って騒ぐこともなく、一、二時間静かに呑んで帰っていくのだ。
 そんなありがたい客が来なくなったら……そう考えるとなかなか帰る決心がつかなかった。と言ってこのまま戻らなければ、またなんだかんだ大騒ぎになるだろう。だから店の明かりが消えるのを待って、それからこっそり忍び込もうと剛志は決めた。
 ところがいつまで待っても明かりが消えない。
とっくに閉店時間は過ぎているのに、なぜか暖簾と赤提灯まで出っぱなしだ。
 ――まさか……何かあったのか?
 剛志がいないという理由で、店をこんな時間まで開けておくはずがない。まして心配して起きているなんて、そんな余裕のある生活じゃあ、もちろんなかった。
 絶対に変だ。そう思い出したら、次から次へと変な想像が駆け巡る。
 ついには、両親が引き戸の向こう側で血だらけになって、息絶えているなんてのまでが浮かび上がった。そうなると不思議なもので、それまでの葛藤が跡形もなく消え去ってくれる。
 剛志は店の前まで全速力で走って、暖簾の下がる引き戸を力いっぱい左右に開いた。
 するとガランとした店内に、正一が一人、背中を向けて座っている。
「おやじ……」
 思わず、声になっていた。そしてそんな声に応えるように、ゆっくり剛志の方を振り返り、正一は静かな声でポツリと言った。
「遅かったな……」
 その顔は優しげで、予期していたものとはぜんぜん違う。
「そこに、母さんがこしらえた握り飯が置いてあるから、まずは座ってゆっくり食え……それからな……」
 そこで一旦言葉を止めて、隣のテーブルから椅子を一つだけ引き出した。それから〝ここに座れ〟と言わんばかりに、ポンポンと台座部分を叩いてみせる。
 そうして、剛志が腰掛けるのを見届けてから、
「いいか? おまえがな、警察にちょっとやそっと厄介になったくらいで、うちの店は潰れたりしねえから、安心しろって、なあ、剛志さんよ……」
 そう言って、剛志の反応をうかがうように、ほんの少しだけ前屈みになった。
 そんな正一の一言で、まとわりついていた重苦しいものが、不思議なくらいにスッと消えた。
おかげでほんの少しだけ、身体が軽くなった気さえする。ただそれは、けっして居心地のいいものではなくて、なんとも落ち着かない心持ちだ。
 絶対に怒鳴られる。そう思って、ゲンコツの一つ二つくらいは覚悟したのだ。
「だからな、剛志……まあ、あれだ、世の中にはさ、いろんな人がいるってことよ」
 ところが向けられる言葉は、信じられないくらいに優しげに響く。
「でもな、おまえがこれからちゃん生きていけば、ああ、あれは間違いだったって、みんな、いずれわかってくれるさ。だってよ、みんなおんなじニッポン人で、ずっとこの町で一緒に暮らしてきたんだ。それにな、ムラさんだって本当は、ずっと前から来たかったんだぜ。でもな、おまえも言ってた通り、あそこんちのババアは本当にケチだからよ。まあ、そんなことでさ、あいつはあいつなりに、考えたってわけだ……」
 もしも自分が金も持たずに現れたなら、また正一らが融通を利かせようとする。ただでさえ売り上げが厳しいって時に、そんなことさせちゃあいけないと……。
「まあさ、あいつなりにない頭を絞ったってわけよ。だから今夜なんて、エビとアブの呑み代まで、無理やり払っていきやがった……」
 そう言って笑う正一に背を向け、剛志の顔はすでにこの時クシャクシャだった。
 張りつめたものが溶け出したように、涙が溢れ出てどうやったって止まらない。
 当然、剛志はそんな顔を見られたくない。だから布巾の被った皿に手を伸ばし、塩だけの握り飯を口いっぱいに頬張った。
 ――俺は、腹が減ってしょうがないんだ。
 だからまず、四の五の言わずに食わせてくれよと、彼は背中でそんな感じを演じて見せる。
 そんな彼に、正一はさらに驚くような事実を打ち明けるのだった。
「いいか? あのミヨさんにはな、おまえが逮捕されちまった日に知り合って、それからは、本当にいろいろと世話になってる。ちょっとおまえには言いにくくてな、これまでずっと言えないでいたんだが、とにかくそんなわけで、今、この店がちゃんとやっていけてるのも、実はあの人のおかげなんだ。だから剛志、明日、ミヨさんが店に来たら、きちっと心から詫びてくれ……わかったな……」
「見代」なのか「御代」か、もしかしたら、「三好」なのかもしれない。
 とにかく「ミヨさん」と呼ばれている彼は、驚くほどの大金を正一に預けていたらしい。
「どういうわけかは知らないが、あいつ、住む家もないってんで、安アパートを紹介したりさ、最初はこちとらが世話してたって感じだったのよ。それがある日、まあ店がかなり厳しくなってた頃だ。いきなり大金を持ち込んで、アパートに置いとくのは物騒だからってな、俺に預かってくれって言い出したんだ。あんな事件があったばかりだしさ、俺も怖くなって、こんな大金預かれないって、一度はきっぱり断った。そしたらな、剛志、よく聞けよ……」
 そこからのくだりは、普段の剛志ならきっと信じちゃいないだろう。
「……いいか? あいつはな、必要なだけ、好きに使っていいってんだよ。え? 嘘だろって思うよな? だからさ、俺だって言ったんだ。冗談言っちゃいけません、ってな」
 そこで思わず驚いて、剛志は振り返ってしまいそうになる。しかしそこはグッと堪えて、慌てて袖口でこすって涙の跡を拭き取った。
 そんなことを知ってか知らずか、正一はさらに驚くようなことを言ってくる。
「もしもだ、俺と出会ってなかったら、今頃どうなっていたかわからない。だからそのお礼だって、店のために使ってくれってさ、あいつ、頭まで下げるんだ。ホント、わけわからねえって、心の底から思ったさ。でもな、これがありゃあ、店もなんとかなるなって、正直、こっちの方でちゃっかり思ったりしてな……」
 正一はそう言いながら、人差し指でこめかみの上辺りをチョコンと叩いた。
 その時ミヨさんは、押し黙ってしまった正一に向かって、二度目となる笑顔を見せて言ったのそうだ。
やきとり屋で大儲けできたら、その時は、倍にして返してもらうから覚悟しろと言い、
「もうこの話はお終いだって、さっさとビールを持ってこいって、そう言いやがった……」
 そうして何事もなかったように、運ばれてきたビールを彼は美味そうに飲み始める。
「でもな、最近は金も少し残るようになってきたからさ、少しずつ返そうとしたんだよ。なのにあいつは、まだまだだって、どう言っても受け取ろうとしないんだ。だからな、この店をもっともっと繁盛させて、なんの心配もないってところを見せつけなきゃならないんだ。俺は、あのミヨっていう男にさ……」
 正一はそう言ってから、今度は手のひら全体で剛志の背中をポンと叩いた。
そうしてその翌日、店に現れたミヨさんに向かって、
「昨日は、本当にごめんなさい」
 ただそう言って、剛志は心を込めて頭を下げた。
するとミヨさんは、彼の頭を一度だけポンと叩き、その後は何事もなかったようにいつもの席に腰を下ろした。すぐに「いつもの」という声が聞こえて、その瞬間からすべてが元通りに戻ったのだ。
 思えば正一は、事件のことで剛志に文句を言ったことがない。
 それどころか店の厳しい状態を、一切匂わせたりもしなかった。
 警察の厄介になったくらいで、児玉亭は潰れやしない。だから安心しろと聞いて初めて、剛志はそんな事実に思いが及んだ。まさにぐうの音も出ないとはこのことで、さらに言うなら、よりにもよって児玉亭の大恩人をぶん殴ってしまったのだ。
 しかし一方では、大金を持っているのに、なぜか正一のようなやきとり屋の世話になる。
これだけはどう考えても、変な話だとしか言いようがなかった。ただ、その金のおかげもあってだろうが、その後の一年以上、店はそこそこ順調だったと思う。
 だからこそ、少しでも金を返そうとするのだが、ミヨさんは一切受け取ろうとはしなかった。
他からの借金すべて返し終わってからでいいと言い、毎日のように手ぶらで現れ、手ぶらのままで帰っていった。
しかし結局、金がミヨさんへ返ることはない。
あの事件から、二回目となる秋の日。それは日本で初めてのオリンピックが開催されてすぐのことだった。
正一が突然、仕込み中に脳梗塞で倒れて他界した。
 そして通夜にも告別式にも、ミヨさんが姿を見せることはない。
 母、恵子が店を開けるようになっても、彼は児玉亭に二度と姿を見せなかった。
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