第5章  1973年  - 始まりから10年後 〜 3 名井良明として(2)

文字数 1,002文字

                3 名井良明として(2)


 剛志はあえてそんな日に、ずっと行けずにいた児玉亭に顔を出す。するとちょうどお昼時で店内は満員。たまたま空いた入り口そばの席に座って、剛志はドキドキしながら新サンマ定食を注文した。
 幸いにして、九年も前に常連だった男の顔など覚えておらず、恵子はちらっとだけ彼を見て、「あいよ!」とだけ言って返した。
 店は彼女一人でてんてこ舞いだが、客は厨房から出される定食を自ら取りに行き、食べ終わった食器を片づけたりとまさに協力的だ。
 きっと見知らぬ同士だろうが、席を譲り合ったりなんとも見ていて気持ちがいい。
 こんなシーンを彼だって、これまで何度も目にしたことがあるはずなのだ。
 ――あの頃の俺の目には、まるで映っていなかったんだな……。
 そして何より恵子の笑顔が素晴らしく、新サンマと白米を頬張りながら、彼は母の背中に向けて力強く思った。
 ――お袋、俺はこの時代で、名井良明として精一杯生きていくよ。
 昭和五十八年に現れる智子を元の時代に帰してやって、三十六歳の剛志がこの時代に残れるようにする。それは変わらずに大事な使命だが、それだけを思って生きていくのを彼はやめようと心に誓った。
 過去の自分を捨て去って、新たな人生をちゃんと生きる。
 だから訪ねるのも今日で最後と、彼はこの日、母親に会いに児玉亭へやって来た。そしてその後さらに、やるべき大事なことが残っている。
 そうして彼は児玉亭に別れを告げて、バス停そばの電話ボックスへ向かうのだ。
 そこで節子へ電話をかける。
理由なんてもうどうでもいい。
会いたいから会おうと告げて、もしもダメだと返ってきたら、その時はその時、男らしくスパッと忘れるよう努力する。
 剛志は深呼吸を一回して、さんざん考え抜いた言葉を頭で何度も復唱した。続いて「よし!」と声を出し、受話器を手にして十円玉を電話機に落とした。
 ボックスの中は蒸し風呂のように暑い。それでも噴き出す汗を拭おうともせずに、彼がダイヤルに指をかけようとした時だった。
 え!? という驚きに続いて、
 ――違う、目の錯覚に決まってる!
 剛志は素直にそう信じ、再びダイヤルに目を向けようとした。
 しかし頭でそう思ったはずが、視線は前を向いたまま動かない。
 ボックスのガラス越しに、一人の女性が立っていた。
 正面からゆっくり近づいて、ボックス前で満面の笑みを見せている。
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