第4章  1963年 - すべての始まり 〜 5 常連客と「おかえり」(4)

文字数 1,631文字

             5 常連客と「おかえり」(4)


 なんという偶然か、それからあっという間に近寄ってきて、
「旦那、トイレかい? トイレならあっちだよ」と、厨房脇にある扉の方を指差した。だから慌てて首を振り、そのままさっきの台詞を口にしようと思うのだ。
ところが正一の声が先に響いて、思わずその台詞を呑み込んだ。
「それじゃあ旦那、ちょっといいかな……」
 正面の席にストンと座って、
「もうすぐ息子が戻ってくるだろ? 俺はそん時、なんて言って迎えてやればいいのかな?」
 小さな声でそう言ってから、大騒ぎしている連中に目を向ける。
「こんなことあいつらには聞けねえしさ、どうかな? 旦那なら、なんて言ってやる?」
 すぐに剛志の方に顔を戻して、そんな言葉を真顔で言った。
 あいつは最近むずかしい。何を言っても返事はせいぜい頷く程度。そんな息子にこんな時、どう言ってやればいいか? と、剛志の顔を覗き込んだ。
 その瞬間、剛志の脳裏に過去の記臆が浮かび上がった。と同時に忘れ去っていた感情までが蘇り、それからそんな記憶に引きずられるように、ただただ素直に思ったままを声にした。
「おかえりって、ただ、そう言ってあげれば、……いいと思いますよ」
 ――実際あなたは、俺にそう言ったんだよ。
「そうだね……、そうだよ。おかえりって、ただそう言ってあげればいいんだよな。うん、その通りだ。俺はごちゃごちゃ考えすぎだな、いやあ旦那、ありがとう! 助かったよ!」
 急に声まで明るくなって、剛志に握手を求めて手を差し出した。
 そうしてこの後すぐに、十六歳の剛志が恵子と一緒に現れる。当然店内は大騒ぎとなって、そのドタバタに紛れて剛志は店を抜け出した。テーブルに千円札を一枚残し、その上にジョニ黒を重石代わりに重ねて置いた。
 二十年前のうろ覚えだが、真っ先にアブさんがジョニ黒を見つけて、正一が気づいた時には半分くらいになっている。
 ――それでアブさんはその千円札を、十六歳の俺に、コソッとくれたんだ。
「出所祝いだから取っとけって、後でオヤジさんには、俺からちゃんと言っとくからよ」
 あの時そうは言っていたが、どうせ忘れてしまったに違いない。
 そんなことを考えながら、多少ほろ酔い加減で川沿いの道を歩いたのだ。すると次から次へと新たな思いが浮かび上がり、剛志は途中何度も立ち止まっては考える。
 この時代で千円といえば、握り寿司なら五人前だ。ラーメンだったら何十杯だし、もちろんやきとり屋の勘定としては不釣り合いも甚だしい。
――もし、アブさんが千円札のことを伝えていたら、きっとあの親父のことだから、今度会った時に何か言ってくるだろうな……。
 二十年前にも現れていた三十六歳の自分は、次の日に、正一から何か言われたんだろうか?
 そんな疑問が浮かび上がって、そうしてやっと剛志は気がついた。
 もし今夜、剛志が金を払わずに、さらにあのウイスキーを置いてこなければ、今この時こんなことを考えてはいない。同じように、あんな助言をしなければ、正一はきっと別の言葉を十六歳の剛志にかけたろう。
 ――結局、俺があれを言わせたんだ。
 ただおかえりと、伝えればいい。そんな助言をまともに信じ、そっくりそのままを口にした。
 そんな安易な言葉を受けて、今頃もう一人の剛志は思っているはずだ。
やっぱり、あいつは俺なんかより、この客たちの方がずっと大事なんだと……。そうして彼はこれ以降、ますます店の客のことが嫌いになった。
 ちょうど正一の手が差し出されたあの時、いきなり扉がガラッと開いて、そこに十六歳の剛志が立っていた。想像していた以上にガリガリで、あれが俺か……? そう思って正一を見ると、彼はチラッとだけ息子の方に目を向けてから、
「あれが、俺の自慢の息子、剛志ですよ、旦那……」
 そう言ってすぐ、また正面にいる剛志の方に向き直った。それからはまさに記憶の通りで、大騒ぎの中、彼は店からコソッと抜け出したのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み