第2章 1983年 – 始まりから20年後......6 二十年前の約束(2) 

文字数 2,111文字

             6 二十年前の約束(2)


 その途端、能面のようだった岩倉氏の表情が一気に変わった。
 と同時に、下向き加減の顔がビクンと動き、視線が左から右手にスッと流れる。
 それは、〝驚いた〟というのとも少し違う……ハッとして、我に返ったとでもいうように動き、それでもあっという間に元の表情に戻ってしまった。
 ――いきなりトイレを貸せってのは、いくらなんでもまずかったかな……?
 そんな後悔を胸に秘め、五十畳はあるリビングから教えてもらったトイレに急いだ。
 やはりトイレもかなり広く、小用便器が三つもある。ちょうど胸から上辺りが大きな窓になっていて、最初剛志はそんなことにも気づかないまま立ったのだ。
 ところがホッと一息ついたところで、剛志の視線にあるものが飛び込んだ。
 その瞬間、あまりの驚きに小便していることさえ忘れ去る。思わず顔を窓に近づけ、その途端下半身にガツンと衝撃。と同時に、便器から響いていた音がスッと消えた。
 いかん! 彼は起きている事実をすぐに悟って、慌てて便器に向けてを心掛ける。
小水を出し切り、それから飛び散ったところをトイレットペーパーで丁寧に拭き取った。そうしてから今一度、小便器のないところから窓の外を覗き込む。
 すると、目の前に広がる庭園の中、やはりその中央辺りにそれはあるのだ。
 ――どうして、こんなところに?
 そう考えて、頭の中で位置関係を思い描いた。
しかし見ている先が、東か西かさえわからない。ただ唯一あれが、すぐそこにあることだけは確かだった。
 ――あの〝岩〟が、いったいなんだっていうんだよ……。
 そんな思いで見つめた大きな岩が、二十年経って再び視線の先に現れた。直径が三メートルは優にあり、地上から三十センチくらいの高さで削り取られたようになっている。
 紛れもなく、それはあの岩だった。伊藤が指差したあの時のまま、不思議なくらい周りの景観とも調和している。
 ――元からある自然を利用して、きっとこの庭園を造ったんだな……。
 そしてとにかく、一番不安だったところがこれで一気に解消された。
 あの岩自体が取り除かれていたら? そんな心配がこの瞬間に消え失せたのだ。剛志は出しきった尿と引き換えに、上手くいくかもしれないという小さな自信を手に入れる。
 実際にその後は、呆気ないくらいに一事が万事順調だった。
 まず、この辺りで起きたことだと前置きをして、あの事件のあらましをささっと説明。もちろんその場に居合わせたことや、逮捕されたなんてことには一切触れない。
 そうしておいて、剛志はいきなり頼むのだった。
「二十年前と同じ三月九日に、事件のあった場所、すなわちお宅の庭に、お邪魔させていただきたいのですが……」
 なんとかお願いできないかと続けて、剛志は唐突に立ち上がり、さらに勢いよく頭を下げた。
 ――二十年前、自宅の庭で殺人事件があった。
 そんな事実を今さらながら告げられ、イヤな顔の一つくらい見せたって普通のはずだ。
 ただ、顔の半分近くを覆っているヒゲと、かなり縁の太いべっ甲メガネ――ご丁寧にレンズまでが茶色――のせいで、表情の変化そのものがわかりにくい。
 それでも彼の態度や言葉には、嫌がる雰囲気など微塵も感じられなかった。
「ああ、その事件のことなら知っています。犯人はおろか、その場に居合わせた女の子も見つかっていないんですよね……。そうですか、そのために、あなたはわざわざ……」
 妙に感慨深げな反応をして、迷惑がっている印象など皆無なのだ。
 きっと剛志が手でも合わせて、亡くなった二人――智子が生きているとは、岩倉氏だって考えてはいまい――を偲ぶくらいに思っているのだろう。
 そしてその日の帰り際、彼はさらにこんなことまで言ってくれる。
「その日、妻は旅行でいませんし、わたしも午後から出かけて数日は戻りませんので、門扉は開けっ放しにしておきます。それから、ちょうどおっしゃっていた辺りに、小さいですが、日本風の離れがあるんです。そこは鍵など掛けていませんし、もしよかったら遠慮なく、その離れを使ってください。三月九日ならまだまだ寒い。それにもし、雨でも降っていればなお大変です。どうぞ用事がお済みになるまで、そこを自由にお使いいただいて構いませんから……」
 きっと自分に、こんな対応はまずできない。
もしも立場が逆だったなら、不審がって会おうとしないことだってあるだろう。剛志はあらためてそんなことを思い、岩倉氏に心から感謝したい気持ちになった。
 こんな人物だから、あんな屋敷に住めるくらいになったのか? 
それとも金があるからこそ、こんなにまで人に優しくできるのか……? 
どっちにしても、これ以上ないくらいにありがたい話には違いない。
 三月九日の午後三時、剛志は庭園にお邪魔する。
そして用事が済めば、そのまま帰ってしまって構わない。
 ところが、何をして用事が済んだと判断するか、実際はそれさえ不明なままだ。
 ただ少なくとも、これであの約束だけは果たせる目処がついたと言えた。
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