第7章  2013年 – 始まりから50年後 1 平成二十五年(9)

文字数 1,301文字

                1 平成二十五年(9)


 すると驚くくらい唐突に、スッといつもの節子が現れる。
「あなた、何?」
 不思議そうな声を出し、剛志を今見たばかりのような顔をした。
 それでも節子は、剛志のことを「あなた」と呼んだ。
さらにきっと、手にあるものを知ってはいない。
 剛志はベッドから飛び下りて、剥き出しの包丁を節子の手から奪い取った。そのままキッチンまで走っていって、流しに包丁を放り込む。そうして何事もなかったように、彼は節子のもとに戻ったのだ。ところがその時、剛志の姿を目にした途端、節子は再び大声をあげた。
「ちょっと! あなたどうしたの!?」
 叫ぶと同時に剛志の右手をつかみ上げ、慌てて彼の掌に顔を寄せた。
 節子から包丁を抜き取った時、わずかに見えた柄の部分をつかんだのは間違いない。
 ところがそのまま引っ張って、あごの部分から刃元辺り――刃渡りの柄に近いところ――が当たったか? 節子のつかんだ手は真っ赤に染まって、床にポトポト血が滴っていた。
 そしてその翌日、節子を連れて、いつもの病院で手の具合を診てもらった。
すると節子が叫んだ通りに、縫わないとくっつきゃしないとさんざっぱら脅される。
「ダメよ、こんなに深くちゃ縫わなきゃダメ、すぐに病院に行きましょう!」
 夜中であると知ってか知らずか、節子は剛志にこんな大声を出したのだ。
 結果、親指の付け根辺りを十針ほど縫って、包帯で右手をぐるぐる巻きにされる。そんな状態で診察室を出た途端、二人にいきなり声がかかった。
「岩倉さん、じゃないですか?」
 声の主はご近所に住むご婦人で、節子があの屋敷に住み始めた頃からの知り合いだ。
 剛志はまだかかりそうだったので、二人は喫茶室でおしゃべりしながら待っているということになる。多少心配だったがダメだなんて言えない。結局二人を見送って、剛志は一人、痛み止めやらなんやら処方箋が出るのを待ったのだ。
 掲示板の数字が何回か変わって、やがて剛志の手にある札番号が表示される。なんだかんだでもう昼近く、剛志はやれやれという印象いっぱいに立ち上がった。
 この時、遠くで誰かが手を挙げたのが目に入る。それも白衣姿で、その立ち姿は記憶にあるような人物ではない。
 ――誰か、後ろにいるのか?
 そう思って後ろを見るが、居眠りをしている老女がたった一人いるだけだ。
 再び前を向けば、さっきの人物が明らかに、剛志目指して近づいてくる。そして少し離れたところで立ち止まり、彼を覗き込むようにして意外な言葉を口にした。
「名井さんじゃありません? ほら、わたし広瀬です。広瀬正ですよ、名井さんでしょ? わたしのこと、覚えてませんか?」
 広瀬正? 確かSF小説家にそんなのがいたな? なんてことをちょい思うが、少なくとも岩倉と呼ばないってことは、あの事故より前に出会ったのかもしれない。
「わかりませんか? そうですよね、あの頃わたしは三十にもなっていなかったし、それが今や還暦にあとちょっとなんだから、まあ、わからなくても無理ないか……」
 そう言われてやっと、以前ここに入院していたのが、三十年くらい前のことだと思い出した。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み