第5章  1973年 - 始まりから10年後 〜 2 岩倉節子(3)

文字数 1,129文字

                2 岩倉節子(3)


 ところがすぐに、そんな笑顔がぎこちなく揺れる。揺れる笑顔が真顔になりつつ……、
「でも、本当によかった……本当に……おめでとうございます」
 ふーっと長い息を吐き、再び深々と頭を下げた。
 その瞬間、彼女の目には涙があった。
 光るものが揺らめいて、顔を上げれば頰を伝った跡がある。
 今日、初めて会ったのだ。
なのに、何も知らない自分のために、涙まで流して喜んでいる。
 そんな事実に、一気に女性との距離が縮まったように感じた。そうしてやっと、ベッド脇に置かれていた紙袋に手を伸ばす気になる。すると中身は十数冊の文庫本で、ちょっと見ただけでも推理小説からSF、ハードボイルドまでと幅広いジャンルに及んでいるのがわかった。
「一応本屋さんに、面白そうなのを選んでもらったんですけど……つまらなかったら、無理しないでくださいね」
 そう言ってすぐ、「それじゃあ、わたしは帰ります」と、彼女が伏し目がちに呟いたのだ。
 その時とっさに、彼は思わず言ってしまった。
「もし、お急ぎじゃなかったら、ですが、もう少し……ここにいてもらえませんか?」
――いきなり俺、なに言ってんだ!
 言った途端にドギマギしたが、それでも剛志は彼女を見つめ、隅に置かれていた丸椅子に向け必死に指を差したのだ。
 どうして、こんなこと口走ったのか? 少なくとも年齢は近いだろうし、水商売であれなんであれ、その顔立ちは間違いなく美人だと言える。
 それでもやっぱり引き止めたのは、彼女が流したあの涙のせいだ。
 一方、岩倉と名乗った女性の方は、その瞬間目を見開いて、少し驚いたようにも見えた。しかしそんなのも一瞬で、すぐに剛志の方に笑顔を向けて、
「わたしには家族もいませんし、急ぐようなことは、何もありませんのよ……」
 静かな調子でそう言うと、丸椅子をベッド脇まで持ってきてから腰掛ける。
「あの、広瀬先生には、どうして……?」
 少々不躾すぎるかと思ったが、そう思った時にはすでに言葉になっていた。
「大した病気じゃないんですけど、ここのところちょっと悪くなって、これからしばらく、また先生のところに通うことになりそうです。家でじっとしてばかりだからいけないんだって、先生に前々から言われてたんです。だからせいぜい頑張って、この病院まで歩いて通おうと思ってるんですよ」
 そう言って、岩倉節子はなんとも優しい笑顔を見せた。
 それからというもの、彼女は週に一、二度、剛志の病室に姿を見せる。そうして他愛もない話から、身の上話なんかを楽しそうに話してくれた。
 きっと彼女は剛志より若い。前からそうだろうと思っていたが、実際の年齢を耳にして、剛志はその若々しさに心の底から驚いた。
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