第1章  1963年 プラスマイナス0 - すべての始まり......3 再会

文字数 2,446文字

                  3 再会


 伊藤博志が智子の前に現れて、間もなく一年が過ぎ行こうとしている。
 なのに未だ、彼自身にまつわる記憶は一切戻らず、何もわからないままだった。それでも勇蔵のおかげで戸籍、住民票を手に入れて、病院の検査でも特に異常は認められない。翻訳の仕事も順調で、今も時々桐島家にやって来ては、勇蔵と小難しい話に花を咲かせていた。
 一方智子は高校生活にもずいぶん慣れて、小言を言われない程度の成績は一応キープできていた。そして時折、英語の和訳などでつまずいたりすると、迷うことなく伊藤のところに聞きにいく。幼なじみとも相変わらずだ。彼は補習授業のおかげで無事卒業することができ、ブツブツ言いながらも隣町にある商業高校に通っている。もう弁当を作ってあげるなんてことはなくなったが、菓子パンを買って与えるなどは未だしょっちゅうあることだった。
 彼の家は昼定食屋をやっていて、母親は朝早くから昼の仕込みに大忙しだ。
だから彼の弁当にまで手が回らず、かと言ってこづかいで買える菓子パン二つ三つでは足りるはずがない。育ち盛りである彼の胃袋を満たすには、それらはあまりに力不足すぎたのだ。
 彼の名は児玉剛志。戦前から続いている幼稚園で一緒になってから、もうかれこれ十年以上の付き合いだった。
 ただ卒園後は、智子が私立に進んだせいで二人はまったく会わなくなった。
ところが小学校三年生の時、智子は一生忘れられない再会をする。

 ――あれ、あいつ見たことある。
 学校帰りに、停車中の車の脇に女の子が立っていた。彼女を目にして、剛志はすぐに智子なんだと気がついた。最初は、道でも聞かれているのだろうと思っていたのだ。
ところがいきなりドアが開いて、車内から伸びた手が智子を引きずり込もうとする。
この瞬間、剛志にもすぐこの状況が理解できた。気づけば車に向かって走っていて、無我夢中で車の男につかみかかった。
 それからすぐに、男の腕に噛みついてやったと思うのだ。ところがその後どうなったのか、彼は一切覚えていない。目を覚ますと病院に寝かされていて、身体のあちこちに包帯がぐるぐると巻かれていた。
 犯人は剛志の突撃によって、智子をそのままにして車を急発進させたらしい。と同時に力いっぱい剛志を外へ押し出した。彼は回転しながら地面に落下。落ちた拍子に額を打って気を失い、道路脇にある側溝まで転がっていた。
 智子が恐怖に打ち勝ち駆け寄ると、側溝に身体半分入れ込んだまま、剛志は身動き一つしないのだ。幸いご近所さんが通りかかって、慌てて剛志を救い出してくれる。それからすぐに家に戻って、119番へも電話してくれた。
 結果なんとも有難いことに、大した怪我にはならずに済んだ。
それでも病院で目を覚ました当初、彼は両親のことさえわからない。頭部への衝撃が大きかったせいで、一時的な記憶障害に陥っていたのだ。そんな事実を病院で知って、智子のショックは尋常じゃなかった。そうして彼女は生まれて初めて、神様に向けて祈ったのだった。
 ――神様、お願いです。剛志くんの記憶を戻してください!
 もしも叶えてくれたなら、そのご恩は一生忘れませんと、毎晩夜空に向かって声にする。そしてそんな祈りが通じたのか、ひと月ほどで彼の打撲や記憶障害はほぼ完治した。
ところが額の傷痕だけは消えてくれない。それでも生え際のすぐ下だったし、成長とともに目立たなくなるという話もあったから、
「傷の一つや二つあった方が、いざという時、箔が付いていいんじゃないか?」
 などと笑って話す父親に、剛志自身もそうかもしれないと素直に思えた。
 そうして前髪を垂らせば傷痕は隠れ、すぐに以前と変わらぬ日常が舞い戻る。それは智子にとっても同様だったが、以前と変化したところも少しはあった。
 小学校の行き帰り、母親が必ず付き添うようになり、二年ぶりに出会った幼なじみと時々一緒に遊ぶようになる。それからずっと変わらずに、二人の関係は今日まで続いていたのだった。
 ところが高校に入った頃から、二人の間にちょっとしたズレが生じ始める。
「なあ、どうして付き合っちゃいけないんだよ? 今だって俺たち、付き合ってるって言ってもいいくらいだろ?」
「どうしてって? だって今のままで十分じゃない。それに付き合うっていったい何? どうせイヤらしいこと考えてるんでしょ!? 最近の剛志くん、ホントにちょっとおかしいよ!」
「何言ってるんだよ、おかしいのはそっちだろ? あんな野郎のところには、自分からホイホイ行くくせに、いったいさ、あそこで何をしてるんだか……」
「ちょっと! 伊藤さんを剛志くんと一緒にしないでね! だいたいさ、そんなこと考えてる暇があるなら、少しは勉強したらどうなの? どうせまた、補習だあ、助けてくれえって言ってくるんでしょ? 毎回毎回、ホント、少しは学んで欲しいわよ!」
 剛志は決まって月に何度か、公衆電話から智子の家に電話をかける。なんだかんだ言っては呼びつけて、教科書や補修ノートを彼女の前に差し出した。
 実際彼は、高校でも赤点だらけだ。
 ――勉強なんてまるでしないんだから、いい成績なんて取れるはずないわ!
 そう思って注意しても、いつも似たような言葉ばかりが返るのだった。
「どうせ店を継ぐことになるんだから、あくせく勉強したって意味ないって……ま、大学でも行こうってんなら話は別だけど、うちにゃそんな金ありゃしないしさ、だから、このままでぜんぜんいいんだよ」
 そう言って笑う彼の顔は、なんとなくだが悲しげに映った。
 ただとにかく、剛志という存在は、あの事件から変わらずに小さなものでは決してない。
 だからと言って、付き合いたいとか、そういうものでもぜんぜんなかった。
この先、どうなるかは別として、智子にとって今の児玉剛志は子供っぽくて、あまりに頼りなさげに映るのだった。
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