第5章  1973年 - 始まりから10年後 〜 3 名井良明として(5)

文字数 1,169文字

            3 名井良明として(5)


 ところが二、三歩踏み出したところで、扉が「バタン!」と音を立てた。
剛志は驚いて振り返り、再び長い廊下が目に入る。その瞬間、不思議なくらい唐突に、これまで考えたこともなかった過去の事実が思い浮かんだ。
 ――そうか、そうだったのか……。
 なんという大間抜け。
 ――どうしてこんなことに、今の今まで気づかなかった!?
 それは過去の剛志への声であり、さらにその後の十年間、ずっと知らないままでいた自分に向けてのものでもあった。
「良かった、目が覚めたのね。どうです? 具合の方は……?」
 そんな声が耳に届くまで、長いことトイレの前に立っていた気がする。
 剛志が驚いて顔を上げると、リビングの扉から節子が顔を覗かせていた。きっともう一方の扉からリビングに入って、寝ていたはずの剛志がいないので捜してくれていたのだろう。
 節子の顔には心配する印象と、ホッとしたという安堵が入り混じって感じられる。
 そしてとにかく、ここはやっぱり節子の家だ。
「あの、わたしは……どうしてここに……?」
 だから、なんとかそう声にした。
「どうしてって、名井さん、昨日のこと覚えてないんですか?」
 たったこれだけで、顛末のおおよそが知れるというものだろう。
「もう、飲みすぎなんですよ……」
 そう言ってから、節子はやっと剛志に向かって笑顔を見せた。
「お寿司屋さんを出たでしょ? そうしたら、もう一軒行くんだって名井さん聞かないの。だからタクシーをつかまえたんです。だけど名井さん、途中で気持ち悪くなっちゃって、それでその時、うちの方が近かったからこっちにお連れしたんです。だけどリビングに入るなり、今度はウイスキーが飲みたいとおっしゃって……」
 困ったもんだ! そんな印象で剛志の顔を睨みつける。そうしてすぐに、いつもの優しい表情に節子は戻った。
「昔はわたしも仕事をしていたから、その関係でお客さまがいらっしゃることもあったんです。そんな時たまに、お酒なんかもお出ししたりすることがあって、だけどここ十何年はずっと棚にしまいっぱなし。だから本当に古いウイスキーとかなんですよ、なのに、それを名井さんソファーに座るなり見つけちゃって、それから飲む飲むって大騒ぎ……」
 完全に明るくなったリビングに戻って、節子は棚から一本のウイスキーを取り出した。
「どうしてもこれが飲みたいからって、ほら、これくらいをグイッと、あなた一気に飲んじゃったのよ……」
 ボトルに親指と人差し指を当て、節子は五センチくらいを作って見せた。
 きっとボトルをラッパ飲みして、一気にそのくらいを流し込んだのだろう。しかし普段の剛志なら、どんなに酔っていようとそんなことなどするはずない。
 たとえそれが、正一の大好きだった、〝ジョニ黒〟だったとしても、もちろんだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み