第5章  1973年 - 始まりから10年後 〜 3 名井良明として(6)

文字数 834文字

               3 名井良明として(6)


 するはずのないことを、ならばどうして昨夜に限ってやったのか?
「きっとそれで、一気に酔いが回っちゃったんだと思うわ。それから後は、声をかけても返事がなくて。ただね、名井さんおかしいの。何度も何度も、わたしの名を呼ぶのよ、だからわたしは返事をするでしょ? でもね、なんの反応もしてくれないの……」
 岩倉、節子……岩倉、節子……。
 まるで呪文のようにそう呟いて、剛志はそのまま酔いつぶれてしまったらしい。
 ――俺はどこかで、きっとそのことに気がついたんだ。
 表札か、トイレに行って気がついたのか? 
もしかしたら上がり込むより前、屋敷全体を眺めて思い出していたのかもしれない。
 ここは間違いなく元いた時代、昭和五十八年で訪ねていた岩倉邸で、その二十年前にはあの林があった場所だ。そしてきっと、あの時、俺を出迎えた……あの男こそ、
 ――あれは、きっと俺だった……。
 顔中を覆うようなヒゲに、暑苦しいべっ甲メガネを掛けて、
 ――三十六歳の俺に、気づかれまいとして……のことだ……。
 今この瞬間も、この世界の剛志はきっと銀座で働いている。そんなあいつがやって来て、五十六歳の剛志は素知らぬ顔で演技する。
こんなのは、まさに思いもよらない真実だった。
 しかしよくよく思い返してみれば、あそこにいた男こそが自分だったという気がしてくる。
 ――どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのか……?
 そんな葛藤に黙り込んだ剛志に、節子はこの時、不思議なくらい何も言ってはこなかった。
 何度も何度もわたしの名を呼ぶ――そう言った後の彼女も、何か思いつめているようにも見えたのだった。
 やがてそんな状態に剛志も気づき、顔を上げ、慌てて何かを言いかけた。
ところがその寸前に、節子が彼の言葉を遮るように言ったのだ。
「あの、もしよかったら、ここで一緒に暮らしませんか? 部屋はたくさんあるし、わたし一人で住むには、ここは本当に広すぎちゃって……」
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