第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 6 火事(4)

文字数 923文字

 6 火事(4)
 

 さらにタクシーに乗り込んだ途端、急に懐かしい場所をのぞいてみたくなったのだ。
 ところがタクシーを降りて少し歩くと、そこに目指していた古宿はなくなっていた。連れ込み宿は新しい建物になって、それでも目立つところに〝お風呂あります〟という張り紙はある。
となれば変わらずに、今も連れ込み宿ではあるのだろう。
「へえ、最近は、お風呂まであるのね」
 そう言って振り返った智子の顔に、微塵の躊躇も感じられない。
「いいじゃない。ちょっと寄り道してから、その後で、ちゃんと食べに行きましょうよ」
 そんな言葉に、もちろん浅川は驚いた。呆気に取られ、言うべき言葉が見つからない。ところが智子はさっさと宿の方へ歩き出し、気づけば彼も智子の後ろを追っていた。
 そうしてあっという間に、一時間くらいが過ぎ去った。
 だいたいの場合こんな時、男と女では時間の流れだって違って感じるものだろう。
 そんな印象を十分見せて、智子がゆっくり、それでも笑顔で言ったのだった。
「ねえ、何が食べたい?」
 鏡台の前で紅を引きながら、智子が浅川に向けそう声にした。
 一方浅川は、布団の上に寝転んでいて、美味そうにホープの煙をくゆらせている。
「なんならここに、店屋物でも届けさせる?」
 どうにも乗り気に見えない浅川に、智子は続けてそう告げたのだ。
 ところが彼は意外にも、食事はいいと言って返した。
「こんなところ、ずいぶん久しぶりだから、俺は明日の朝までここでゆっくりしていくよ」
 そう続け、すでにフィルターだけになった吸い殻を灰皿目指して放ってみせた。
 この時、智子は心で思うのだ。
 ――浮気しちゃったって、まさか、後悔してるの?
 そんなことでないのなら、
 ――お腹いっぱいってことかしら?
 なんてことまでちょこっと考え、さらに思ったままを口にする。
「そうね、きっとそんなのも、たまにはいいかもしれないわね。それじゃ浅川さん、また、会う日までね……」
 夜の仕事をやめてから、智子は男に一度だって抱かれていない。だから気分が高揚していたのも事実だし、その余韻に浸っていたいくらいに思っていたのかもしれない。
 だから呆気ないくらいサラッとそう告げて、彼女はその旅館を後にしてしまった。
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