第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 2 昭和二十年 春(2)

文字数 1,018文字

 2 昭和二十年 春(2)
 それでも家がどこにあって、自分が誰なのかはわかっていたから、これは熱による一時的な状態。いずれすぐに治ると思って、そう心配はしていなかった。
 ところが翌日、男に付き添ってもらって自宅に向かってみると、そこに記憶にある家がない。
 草ぼうぼうの野っ原だけがあって、さらにさらに、見知らぬ風景ばかりが辺り一面広がっている。
 ――どういうことなの?
 当然の混乱が彼女を襲い、続いて涙が一気に溢れ出した。
「どうしてなの……家が、ないわ。ここに、わたしの家が、あったのに……」
 心で思うすべてが言葉となって、思わずその場にしゃがみ込んだ。そんな姿を見てやっと、記憶喪失なのかと男は思う。そっと彼女の背中に手を置いて、静かな声でポツリと言った。
「あのさ、君は、どこまで覚えてる?」
 そんなことを言われて、智子も必死に考えるのだ。
ところが不思議なくらいに、どうして倒れていたかが出てこない。だから困った顔して男を見つめ、なんとかひと言声にした。
「どこまで……って」
「あのさ、じゃあ今が昭和何年で、何月だかって君にはわかる?」
 今は昭和二十年で、東京大空襲から六日しか経っていない。そう男から告げられ、智子の混乱は最高潮に達した。自分は戦後の生まれで、昭和三十八年を生きる高校生だ――と、すぐ声高に訴えるべきか? そう思いながらも、
 ――もしかして、わたしの方がおかしいってこと?
 なんて不安を拭きれない。さらに姓名を尋ねられ、下の名前しか出てこなかった。
 自分の住んでいた家のことや、高校に通っていた記憶なんかはちゃんとある。きっとこのままテストを受ければ、そこそこの点数だって取れるような気がした。
なのに、肝心の苗字が出てこない。
こうなる前の記憶が消え失せ、両親や友達の顔もまるで覚えていなかった。そんな大事なことを忘れて、大化の改新がどうだなんてことだけ知っている。
 頭を打つか何かしたか、それとも高熱のせいなのか?
 とにかく何がどうだったとしても、これからだって生きなきゃならない。
 幸い男の実家は裕福で、父親は代議士、彼自身は弁護士という名家だった。当然住まいはかなり大きく、ちょうど家政婦が一人辞めたからと言って、
「もし、よかったらだけど……記憶がちゃんと戻って、帰る家が見つかるまでの間だけでも、うちに来て、住み込みで働かないか?」
 呆然と野っ原を見つめる智子へ、男はかなり遠慮気味にそんなことを告げたのだった。
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