第8章 1945年 - 始まりの18年前 〜 2 昭和二十年 春(3)

文字数 1,071文字

 2 昭和二十年 春(3)
 

 そうして大きな不安を抱えながらも、智子はそんな申し出を受け入れた。
 それでも幸い、掃除や洗濯は嫌いじゃなかった。そんな記憶だけはちゃんとあって、さらにいざ働いてみると、女中という響きから連想するほど、〝辛い〟ということもほとんどない。
 ただ、風呂焚きだけは別だった。
石炭を燃やして沸かす水管式のボイラーなのに、肝心の石炭が貴重品だから薪だけで沸かすのだ。そうなると、しょっちゅう火の具合を見に行かなければならないし、当然食事の用意だってあるからそれはもう大忙しだ。
 最初のひと月はあっという間に過ぎ去って、あと数日でまる二ヶ月という頃だった。
 夕方から急に雨が降り出し、智子は男のために駅まで傘を届けることになった。
言われた通り駅に着くと、彼はすでに改札口に立っている。ところが智子が駆け寄るなり、突然コーヒーを飲んで帰ろうと言い出した。それから駅前通りにあるカフェ目指して、自分だけさっさと歩き出してしまうのだ。
 本当ならすぐに帰って、もう一人の家政婦と夕食の準備に取りかからねばならない。
それでもコーヒーなんてずいぶん久しぶりだったから、
 ――一杯だけ飲むくらいなら、きっと大丈夫よね……?
 そんなふうに思って、智子は慌てて男の後ろについていった。
 そうしてカフェで待ち受けていたのは、あまりに予想外の展開だ。
「結婚して、もらえないか?」
 なんの前触れもなくそう言って、あとは智子の顔を穴のあくほど見つめている。
 だいたい智子は十八歳にもなってない。なのに二十八歳からプロポーズされて、それも知り合ってまだ数ヶ月というのにだ。
 ただ、彼のそんな気持ちに、これまでまったく気づかなかったというわけじゃない。
好かれてる? くらいはなんとなくだが感じていたのだ。しかし十歳以上の年の差だ。まさかこんなことになるとは夢にも思っていなかった。
 聞けばこの時代、十五歳になれば結婚自体はできるらしい。
 だからと言って、智子の感覚では結婚なんて遠い未来のお話だ。
「少し、考えさせてください」
 もちろん受ける気などなかったが、まずはそう返しておくのがベストだろうという気がした。
ただの気まぐれだってこともあるし、明日になれば気が変わっているかもしれない。
 ――だいたい、あの母親がこんな結婚を許すんだろうか?
 そんなことまでを考えて、とりあえず断ることはしなかった。
ところがそんな心配が、予想もしない形で智子自身に降りかかる。
その翌朝、彼が仕事に出かけてすぐのことだ。智子は彼の母親に呼び出され、呆気なくクビを言い渡される。
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