第2章 1983年 – 始まりから20年後......4 昭和五十八年 坂の上
文字数 2,375文字
4 昭和五十八年 坂の上
この橋を渡ってしばらく行けば、右手に懐かしの我が家が見えてくるはずだった。
ただ、四年前に恵子が五十五歳でこの世を去って、剛志はさんざん悩んだ挙句、児玉亭を売りに出した。死因は正一と同じ脳梗塞。近所の常連客が鍵を壊して入った時には、すでに死後半日以上が経過していた。
明け方、寝ている間のことだったから、きっとそう苦しまずに逝けただろう。
そして彼女の葬式には、父親の時と同じくらい大勢の人が集まった。もちろん懐かしの常連客も何人かいて、皆、神妙な顔つきで剛志に向かって頭を下げた。
それから四年、一度もこの地を訪れていない。
買い手が付いたと連絡があってから、彼が足を踏み入れるのは今回が初めてだ。店がどんなふうに変わっているか、果たして奥にあった住まいは今もあるのか、などと思いながら、彼はバス停からの道をゆっくり歩いた。
二月のとある日曜日、あいにくの雨模様だが、剛志はある目的のために懐かしの町を訪れた。
――へえ、こんなんで、今時やっていけるのか?
真っ先に浮かんだ言葉がそれで、続いて店の中まで是非とも覗いてみたくなる。
まるで、変わっていなかった。就職しても時折、母親の様子窺いで訪ねていた当時のまま、店は何も変わらずそこにある。
それにしてもだ。誰がどんな商売をやっている?
暖簾が下がっていないからわからないが、昔のまま、磨りガラス四枚引き戸という入り口は、間違ってもイタリアンってことはないはずだ。
さらに昼時の、こんな時間に営業していないということは……、
――やっぱり呑み屋? いや、もしかすると日曜は定休日か?
それ以前に、すでに廃業してしまったってこともあるだろう。
――ま、なんにしても、ここはもう、俺には関係ないとこだ……。
そう無理やり思って、店の前から立ち去ろうとした時だった。
いきなり引き戸がガタンと鳴った。
驚いて振り返った視線の先で戸が開き、店の中からノソッと大きな影が現れる。
――この顔、見たことがある!
そう思うが早いか、現れた影が驚くような大声をあげた。
「おい! 剛志か? そうなんだろ? おまえ、剛志だよな?」
まるで怒ったようにそう言うと、影は自分を〝船本〟だと告げて、
「懐かしいなあ……」と、剛志の顔をマジマジ見つめた。
彼はなんと、児玉亭の常連客だった〝フナ〟さんで、その姿は見事なまでに変わっている。
たとえ道ですれ違っても、名乗り出てくれない限りきっと彼だと気づかないだろう。
「やっぱり剛志だよな、ずいぶん大人になっちゃって……。さあ、入って入って、今日は日曜日だしさ、時間は、まだあるんだろ?」
フナさんはそう言って、さも嬉しそうにその顔をくしゃくしゃにした。
昔とおんなじメガネを掛けて、人のよさそうなところは変わっていない。
ところがその体躯が別人なのだ。ほっそりしたシルエットが雲散霧消して、見事なまでに大きくなった彼がいた。
「ただでさえ、呑み屋なんて右も左もわからないからさ、〝アブさん〟らに教えてもらって始めてみたはいいけど、最初はとにかく売れ残るのよ。残ったからってさ、捨てるのはもったいないでしょ? だから食事代わりに、とにかく残りモンをバクバク食べてたんだ。そしたらさ、いつの間にかこうなっちゃった……すごいでしょ?」
きっと、二、三十キロは太ったろう。
丸々突き出た腹を撫で、フナさんがニコニコしながらそう言った。
――契約書を見た時に、俺はどうして、彼だと気づかなかったか?
そうは思うが、実際のところ、船本洋次という名を目にしても、このフナさんを思い浮かべたかは甚だ怪しいものだった。
フナさんは五十五歳で勤めていた会社を定年退職。その退職金で児玉亭を購入していた。そして今ではグルメ雑誌にも掲載される繁盛店、〝モツ煮亭〟の店主となっている。
それからフナさんは、近所に残っている剛志の旧友たちへ、電話をかけまくって呼びつけるのだ。そうして一時間もすると、今やモツ煮亭の常連客となった同級生らが集まって、店の一角が懐かしの酒宴の場となった。
その中には、当時剛志が釈放されてから、さんざん悪態をついた輩も交じっている。
それでもきっと当人は、そんな事実など忘れてしまっているのだろう。ただただ大変だった、俺はずいぶん心配したと口にして、あの頃も変わらず味方だったような顔をした。
だからと言って、腹が立つということもない。
二十年という歳月はやはり大きく、懐かしさが心地よくてそれなりに楽しい。あっという間に三時間が経過して、彼は多少強引にモツ煮亭を抜け出した。
とにかく、暗くなっては困るのだ。記憶もずいぶんあやふやだったし、もしも見つからなければここに来た意味がなくなってしまう。
幸い、酔っぱらったというほどではなかった。それでも昼間の酒は影響したようで、もはや家を出る時の憂鬱な気分は跡形もなく消え失せていた。
火事のあった林……そこを訪れるということは、同時に智子のことを思い出すことになる。
毎日のように智子を捜しまわったあの日々は、三十六年という人生で一番辛いものだった。
そんな辛い日々が半年くらい続いて、ミヨさんを殴ってしまったあの日以来、彼は智子を捜すのをピタッとやめた。それ以降、林を見ていないし、あの丘へと続く急坂さえ一度だって上っていない。
あの日、林への入り口が遠くに見えて、智子はそのずいぶん手前を左に曲がった。
それはきっと、伊藤がそうしたからで、今となってはもうどうでもいいことだ。
とにかく、あの場所さえ見つかればいい。それだけを思って林に向かうと、いきなり予想外の光景が現れるのだ。
この橋を渡ってしばらく行けば、右手に懐かしの我が家が見えてくるはずだった。
ただ、四年前に恵子が五十五歳でこの世を去って、剛志はさんざん悩んだ挙句、児玉亭を売りに出した。死因は正一と同じ脳梗塞。近所の常連客が鍵を壊して入った時には、すでに死後半日以上が経過していた。
明け方、寝ている間のことだったから、きっとそう苦しまずに逝けただろう。
そして彼女の葬式には、父親の時と同じくらい大勢の人が集まった。もちろん懐かしの常連客も何人かいて、皆、神妙な顔つきで剛志に向かって頭を下げた。
それから四年、一度もこの地を訪れていない。
買い手が付いたと連絡があってから、彼が足を踏み入れるのは今回が初めてだ。店がどんなふうに変わっているか、果たして奥にあった住まいは今もあるのか、などと思いながら、彼はバス停からの道をゆっくり歩いた。
二月のとある日曜日、あいにくの雨模様だが、剛志はある目的のために懐かしの町を訪れた。
――へえ、こんなんで、今時やっていけるのか?
真っ先に浮かんだ言葉がそれで、続いて店の中まで是非とも覗いてみたくなる。
まるで、変わっていなかった。就職しても時折、母親の様子窺いで訪ねていた当時のまま、店は何も変わらずそこにある。
それにしてもだ。誰がどんな商売をやっている?
暖簾が下がっていないからわからないが、昔のまま、磨りガラス四枚引き戸という入り口は、間違ってもイタリアンってことはないはずだ。
さらに昼時の、こんな時間に営業していないということは……、
――やっぱり呑み屋? いや、もしかすると日曜は定休日か?
それ以前に、すでに廃業してしまったってこともあるだろう。
――ま、なんにしても、ここはもう、俺には関係ないとこだ……。
そう無理やり思って、店の前から立ち去ろうとした時だった。
いきなり引き戸がガタンと鳴った。
驚いて振り返った視線の先で戸が開き、店の中からノソッと大きな影が現れる。
――この顔、見たことがある!
そう思うが早いか、現れた影が驚くような大声をあげた。
「おい! 剛志か? そうなんだろ? おまえ、剛志だよな?」
まるで怒ったようにそう言うと、影は自分を〝船本〟だと告げて、
「懐かしいなあ……」と、剛志の顔をマジマジ見つめた。
彼はなんと、児玉亭の常連客だった〝フナ〟さんで、その姿は見事なまでに変わっている。
たとえ道ですれ違っても、名乗り出てくれない限りきっと彼だと気づかないだろう。
「やっぱり剛志だよな、ずいぶん大人になっちゃって……。さあ、入って入って、今日は日曜日だしさ、時間は、まだあるんだろ?」
フナさんはそう言って、さも嬉しそうにその顔をくしゃくしゃにした。
昔とおんなじメガネを掛けて、人のよさそうなところは変わっていない。
ところがその体躯が別人なのだ。ほっそりしたシルエットが雲散霧消して、見事なまでに大きくなった彼がいた。
「ただでさえ、呑み屋なんて右も左もわからないからさ、〝アブさん〟らに教えてもらって始めてみたはいいけど、最初はとにかく売れ残るのよ。残ったからってさ、捨てるのはもったいないでしょ? だから食事代わりに、とにかく残りモンをバクバク食べてたんだ。そしたらさ、いつの間にかこうなっちゃった……すごいでしょ?」
きっと、二、三十キロは太ったろう。
丸々突き出た腹を撫で、フナさんがニコニコしながらそう言った。
――契約書を見た時に、俺はどうして、彼だと気づかなかったか?
そうは思うが、実際のところ、船本洋次という名を目にしても、このフナさんを思い浮かべたかは甚だ怪しいものだった。
フナさんは五十五歳で勤めていた会社を定年退職。その退職金で児玉亭を購入していた。そして今ではグルメ雑誌にも掲載される繁盛店、〝モツ煮亭〟の店主となっている。
それからフナさんは、近所に残っている剛志の旧友たちへ、電話をかけまくって呼びつけるのだ。そうして一時間もすると、今やモツ煮亭の常連客となった同級生らが集まって、店の一角が懐かしの酒宴の場となった。
その中には、当時剛志が釈放されてから、さんざん悪態をついた輩も交じっている。
それでもきっと当人は、そんな事実など忘れてしまっているのだろう。ただただ大変だった、俺はずいぶん心配したと口にして、あの頃も変わらず味方だったような顔をした。
だからと言って、腹が立つということもない。
二十年という歳月はやはり大きく、懐かしさが心地よくてそれなりに楽しい。あっという間に三時間が経過して、彼は多少強引にモツ煮亭を抜け出した。
とにかく、暗くなっては困るのだ。記憶もずいぶんあやふやだったし、もしも見つからなければここに来た意味がなくなってしまう。
幸い、酔っぱらったというほどではなかった。それでも昼間の酒は影響したようで、もはや家を出る時の憂鬱な気分は跡形もなく消え失せていた。
火事のあった林……そこを訪れるということは、同時に智子のことを思い出すことになる。
毎日のように智子を捜しまわったあの日々は、三十六年という人生で一番辛いものだった。
そんな辛い日々が半年くらい続いて、ミヨさんを殴ってしまったあの日以来、彼は智子を捜すのをピタッとやめた。それ以降、林を見ていないし、あの丘へと続く急坂さえ一度だって上っていない。
あの日、林への入り口が遠くに見えて、智子はそのずいぶん手前を左に曲がった。
それはきっと、伊藤がそうしたからで、今となってはもうどうでもいいことだ。
とにかく、あの場所さえ見つかればいい。それだけを思って林に向かうと、いきなり予想外の光景が現れるのだ。