第6章  1983年 – 始まりから20年後 〜 3 革の袋(13)

文字数 1,064文字

               3 革の袋(13)


 節子の声が響き渡って、さらにひと呼吸置いてから、彼女の顔が剛志に向いた。

 いい加減にしてほしい。
 今度そんなことになったなら、
 わたしはあなたと離婚します。

 要約すればこうなるが、その何倍もの言葉が彼女の口から溢れ出た。
 目には涙が溜まり、息を吸うたびに口元がわなわな震えて見える。
 この瞬間、剛志は初めて節子の気持ちを知ったのだ。
 植物状態の男が奇跡的に目を覚まし、なんとか十年間は生きてきた。しかし今後、何かの衝撃でいつなん時、再び眠りに就くかもしれない。
 きっと彼女の心には、片隅にいつでもそんな恐怖があったのだろう。
 ――これからは、節子との生活だけを考えて、生きていくから……。
 そんなことを心に念じ、剛志は心の底から節子に詫びた。
 もう二度と、今回のようなことはやって来ない。すべては終わってしまったし、こうなってしまえば、あとは忘れてしまうくらいしかやることはない。
 そうして最後に、庭がどうなっているかを確認する。もちろん残されたマシンはそのままにして、いつなんどき智子が戻ってきても、使えるようにしておくつもり……などと、そう思っていたのだが、剛志の思う通りにはとことん進んでくれないらしい。
 マシンがあれば、太陽の光ですぐにわかるはずなのだ。ところがいくら目を凝らしても、岩の上にはなんにも見えない。慌てて駆け寄っても同様で、
 ――やっぱり、智子はマシンに乗ったのか?
 マシンがないということは、そういうことになるだろう。
 庭からは出て行かず、彼女はずっとどこかに隠れていた。男たちが逃げ去って、節子が家に入ってか、もしかしたら病院に向かってからかもしれないが、過去から戻ったマシンにきっと智子は乗り込んだのだ。
 それでも、二十年前には戻っていない。
 ならば操作を誤って、二十年未来へ行ったのか?
 二十年後、2003年で待っていれば、再びこの場所に現れるのか?
 そんなことを考えているうちに、新たな疑問が降って湧いたように浮かび上がった。
 三十六歳の剛志は、確かにマシンに乗ったはずだ。男たちが呆然と立ち尽くしていたというから、そこのところはまず間違いない。彼のバッグは岩の隅っこに置かれたままだし、となればやっぱり無一文で旅立った。
 ――ならばどうして、この時代になんの変化もないのだろうか?
 金がなければ旅館には泊まれない。まして児玉亭への援助なんかは絶対的に不可能だ。となれば何から何まで状況は変わるし、節子との出会いだって同じようにはならないはずだ。
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